大叙事詩『失楽園』で有名なイギリスの詩人ジョン・ミルトンが、書物の検閲に反対して、一七世紀中ごろに著わした『アレオパヂティカ―許可なくして自由のためにイギリス国会に与える演説』は、個人的良心の自由という近代市民社会の理念を強調したものとして、「表現の自由」論の最重要古典の一つに数えられるが(①)、ピューリタンだったミルトンは、カトリック信者など「異教徒の自由」までは認めなかったようである。それから一世紀後、「すべてのひとは平等に造られている」ことを高らかにうたったアメリカ独立宣言の起草者、トーマス・ジェファーソンその人が、当時の植民地経営者の例にもれず、奴隷所有者だったこともまた、よく知られた事実である。新しい地平を切り拓いた天才、偉人にしてなお、自らをよく知ることは至難だったということだろう。
なぜこんな話から始めたかというと、私たちは折りに触れて「表現の自由」を口にし、その重要性を強調したりもするけれど、先人たちが長い歴史の中で闘いとってきた「表現の自由」が、現在の多メディア化の嵐の中でどのような状況に置かれ、何が新たな問題とされているかについて、あまりよく理解していないように思われるからである。
マスメディアの人間は、自らがメディアに深く関わってきた自負心ゆえにか、インターネットなどの新しいメディアに不寛容のようにも思われるが、いま進められつつあるインターネット規制の動きは、私たちにとっても決して無縁ではない「表現の自由」にかかわる大問題だといえよう。
第一章「表現の自由」とジャーナリズム
最初に「表現の自由」とジャーナリズムをめぐる歴史的経過を一瞥し、その後で、情報の「送り手」と「受け手」の構図をドラスティックに変えつつある多メディア化の現状に触れる(もとより筆者は法律の門外漢であり、以下の論考は日ごろ感じている事柄を体験的に整理したものにすぎない)。
1 「送り手」の「報道・出版の自由」
多くの国の基本法が保障するもろもろの権利のなかでも、「表現の自由」はとりわけ重要であることに異論はないだろう(②)。権力者が自由な出版活動を制限しようとしたとき、その「検閲」に反対して「表現の自由」が主張されたのは当然のなりゆきだった。「表現する者」の権利、「送り手」の権利として、まず認識されたのである。
情報は発信され、受け取られるものだから、「表現の自由」は原理的に「受け手」の「知る権利」を内包していたといえるが、歴史的経過としては、送り手の「表現の自由」がまず問題となった。情報を規制しようとする側にとっては、送り手の首根っこを押さえさえすれば、受け手には情報が届かず、それで実効が上がったからである。
「表現の自由」は、何よりもまず「個人の自己実現をめざす」ための権利だったといえる。自立した個人の存在と、それを保障する国家という考えに裏打ちされていたのである。定期的に発行される新聞は、ヨーロッパの商業貿易圏が拡大した一七世紀に、本社―出先間のビジネス情報を伝えるニューズ・レターや商用パンフレットが発達した形で成立し、まもなくアメリカ新大陸にも波及する。こうして世界的に報道機関が成立し、政治、経済、文化などにかかわるさまざまな情報を提供するようになると、しだいに情報の「送り手」と「受け手」の役割は固定され、「表現の自由」は「報道・出版(プレス)の自由」として意識されるようになる(「表現の自由」には「言論(スピーチ)の自由」も含まれる)。
ここでは民主主義社会を支える不可欠な要素としての「表現の自由」が強調された。国政に関するさまざまな情報を国民に伝え、世論形成に寄与する役割、民主主義社会の制度的保障としてのメディア、そのための「報道の自由」である(個人を出発点にした自己実現的契機と制度を出発点にする民主主義的契機は、「表現の自由」原理論の二側面でもある)。
<送り手と受け手の共存>
ジャーナリズムとは、日々の出来事を認識し、記録し、公開する精神活動である。公正中立な立場からの報道・解説・評論だといってもいい。「表現の自由を享有する社会的機能、あるいはそのような自由を享有する主体」(③)と位置づけられる。ジャーナリズムを主たる活動にする組織(企業)、システムがマスメディアである。マスメディアおよびその活動を、マスコミと一括りに表現することもある(④)。
報道機関は「表現・報道の自由」のもとに、国民の「知る権利」に奉仕するものとして取材活動を展開すると説明された。そこから「取材の自由」という考え方も出てくる。役所の記者室提供や法廷に記者席を設けるなどの便宜提供も、「取材の自由」によって容認されてきたわけである。ここでは、マスメディアは情報の「送り手」、個人(国民)はその「受け手」というふうに社会的役割が固定されており、だからこそ「マスメディアの社会的責任」が説かれもした。ジャーナリズムの役割としての「真実の追求」「権力のチェック」が強調され、「送り手」と「受け手」とのよき共存関係が想定されていたともいえよう。
この歴史的文脈におけるジャーナリズムの社会的事件としては、①法廷内撮影などの取材制限、②記者の取材源秘匿権、③取材メモ、テレビフィルムなど報道目的のために取得した情報の強制提出命令、④国家秘密と報道の自由、などが問題になった(⑤)。
2 「受け手」の「知る権利」とマスメディア批判
今世紀半ばごろから(日本においては経済の高度成長期以降)、企業体としてのメディア(マスメディア)が大規模化、同時に多様化するとともに、「送り手としてのメディア」、「受け手としての国民」の間に利害の対立が生じ、メディアの役割に対する不信がしだいに強まってくる。テレビや週刊誌の隆盛とあいまって、マスメディアは社会性の強い情報の伝達よりも、芸能、スポーツ、娯楽、趣味といった個人的な生活情報、エンターテインメントの提供を重視するようになった。主義主張は利潤追求の手段となり、公権力の規制に服する傾向も出てくる。「表現の自由」の、「企業の自由」「営業の自由」、場合によっては「表現しない自由」への変質が指摘されるようになる。「ジャーナリズム」より「マスコミ」の時代である(⑥)。
マスメディアの活動が個人の自由・権利と矛盾する場合、その「表現の自由」は、後者を保護する法律によって制約されることになる。もともと「知る権利」は、アメリカの報道機関が政府に対して情報公開を迫る際、自らを国民の「知る権利」の代弁者として位置づけたことに由来するが、「送り手」と「受け手」の間に分裂が生じれば、国民の側から「知る権利」の再構築が求められることになる。マスメディアへの「アクセス権」とは、「表現の自由」の弊害を是正するために公権力の規制も必要だという、「表現の自由」のいわば社会権的主張である(⑦)。
日本においては、一九七〇年ごろ「マスコミ公害」、「情報公害」ということがいわれた。「プライバシー」の権利が「ひとりで放っておかれる権利」として主張されるようになるのも、個人的な秘事を暴露して売りものにする扇情的マスメディアからの保護を求めてのことである。新聞は情報のデパート化し、テレビはすべてをショー化、週刊誌をはじめとする雑誌は、売らんかなのセンセーショナリズムを強め、硬派の総合月刊誌は退潮を余儀なくされた。
この歴史的文脈では、プライバシー侵害や名誉毀損などを理由にマスコミが訴えられるケースが多発している(⑧)。メディアの批判的受容という観点から「メディア・リテラシー」がさかんに唱えられるようにもなった。
3 「送り手」および「受け手」の変容とマスメディアの「アイデンティティの喪失」
放送衛星や通信衛星によるテレビのデジタル多チャンネル化、個人でも簡単に情報発信できるインターネットの登場――一九九〇年代に入って猛烈な勢いで進むメディアのデジタル化、というより、デジタル技術による社会の総メディア化、高度情報社会化は、既存メディア相互の垣根を取り払うと同時に、これまでメディアとは縁のなかった娯楽産業、総合商社、流通大手、コンピューター・メーカーなど異業種大資本の、国境を越えてのメディア産業への侵攻をもたらした。
既存メディアや新興メディアが、相互に牽制、あるいは合従連衡を繰り返しながら激しい生き残り競争を展開する中で、メディアのあり方に関してドラスティックな変化が起こっている。
<送り手と受け手の流動化>
第一がメディアの相対化である。BSテレビ、CSテレビ、ケーブルテレビも含むテレビの多チャンネル化、インターネットの普及などは、情報の「送り手」の数と同時に、提供される情報の量を飛躍的に増大させる。一方で、「受け手」たる個人の情報摂取量には限界がある。一日二十四時間のうち情報に接触する時間はそれほど変化しようがないから(⑨)、個々のメディア(「送り手」)は「受け手」の好みによって自由に選択されるようになる。かくして、個々の番組の視聴率は下がるし、新聞の部数は減るし、書籍のベストセラーは生まれない。アメリカのビジネス・コンサルタント、エスター・ダイソンはこの辺の事情を「コンテンツが個人の関心を消費する」とうまく表現している(⑩)。複製(コピー)技術の発達は、コンテンツ自体の価格を著しく下げることにもなる。各メディアは「受け手」によってそれぞれ相対化され、新聞についていえば、国民の「知る権利」代行メディアとしての地位は低下し、メディア全体でみると、「送り手」優位から「受け手」優位への転換となる。
第二はメディアの融合と分離である。情報のデジタル化は、活字も、音声も、映像も、すべてを0か1かの記号に変えてしまうから、電子情報としては、新聞、雑誌、書籍、ラジオ、テレビ、映画といったメディア相互の境界はあいまいになる。また電子情報は、一つのパッケージとしてより、一つの論文、キーワードでまとめられた記事群、テーマ別番組といったふうにバラ売りされる傾向にある。メディアのブランドより、中味(コンテンツ)の独自性が重要になるわけで、融合したメディアの中で各コンテンツは分離していく、ともいえよう。
メディアの管理者と情報提供者も分離していく。たとえば雑誌発行人は掲載した記事のすべてに目を通し、それに責任を負っているが、後に触れるように、インターネットのプロバイダーは、管理者ではあるが情報提供者ではなく、情報内容にはほとんどタッチしない。記事と広告の関係もそうである。たとえば新聞では、記事と広告は厳密に区別されているが、インターネットでは、情報と広告はリンクによってむしろ関連づけられる。新聞社は広告も自社の責任で編集しているが、インターネットでは、情報提供サイトと広告制作サイトが別の例が増えている。記事重視の仕組みと広告獲得を最優先にした仕掛けの違いともいえよう。
第三は情報の流れと質の変化である。これまで情報は、「送り手」がその責任によって編集し、「受け手」はそれをそのまま受け取る存在だった。だからマスメディアの社会的責任が説かれ、アクセス権が問題にされたのである。ところが、強力な情報処理能力をもつパソコンは、家庭やオフィスの端末が情報を自由に編集することを可能にし、受け手は生の情報をそのまま受け取ることを求めるようになる。
また、電子メールは世界中の友人・知人に瞬時に情報を伝達できるし、ホームページを開けば、自分の主張を全世界に知らせることができる。個人が「表現の自由」を行使する手段がビラ張り、集会、デモ行進、ミニコミぐらいだったころに比べると、革命的な変化である。すべての人々が「表現の自由」を享受できる環境が、人類史上はじめて整ったともいえる。「受け手」が「送り手」となり、「送り手」も「受け手」となる双方向メディア時代の到来でもある。
ホームページを使っての情報発信は、企業の広報活動にも積極活用され、官庁の情報公開も急速に進みつつある。このことは全国に張りめぐらせた取材網でさまざまな情報をキャッチ、それを報道してきたマスメディアのあり方を大きく変えるし、「情報の交差点」的役割をなかば”独占”してきた記者クラブにも影響を与えずにはおかない(⑪)。マスメディアが情報の収集、加工、伝達の過程をほぼ独占してきた社会システムそのものに変化が起こっているのである。その意味では、「マスメディアの時代」は終わりつつあるといっていい。(⑫)。
<忘れられた?「表現の自由」>
こういった情報洪水、情報氾濫の中で、マスメディアは企業としての存立を図りながら、自らのアイデンティティをどのように保っていけるのか。このことこそが、二一世紀に向けてマスメディアが新たな歩みをはじめるための最優先課題であろう。
ところが、現下のマスメディアに顕著に見られるのが「アイデンティティの喪失」である。多メディア化は、一方では新しいメディア企業による娯楽、スポーツ、生活情報など「売れる実用情報」提供を促進しつつ(⑬)、他方では既存マスメディアにおけるジャーナリズム精神を衰退させているが、残念ながらその構図は、巨大資本の攻勢にたじたじとなり、あるいはそれに煽られて、マスメディアがジャーナリズム性を手放しつつある姿と捉えられるのかもしれない。
アイデンティティ喪失を示す事例には事欠かないが、今年三月、広告会社・電通の発案で新聞の全国紙、ブロック紙、地方紙九十一紙を使って行われた「意見広告キャンペーン」、題して「ニッポンをほめよう」キャンペーンもその一つである(⑭)。全国・ブロック紙では二ページ見開きで、左側に吉田茂元首相の顔写真が大きく載り、右側には「ニッポンをほめよう。」との大きな活字。本文は「『ニッポンをほめよう』は、わたしたち60の企業が発信する、共同声明です」で終わっており、五十九の企業名の最後に、朝日新聞には朝日新聞社、読売新聞には読売新聞社、日経新聞には日経新聞社というふうに、それぞれの掲載紙の会社名が載った。
本文に「政治が悪い、官僚が悪い、上司が悪い、教育が悪いと、戦犯さがしに明けくれるのは、もうよそう。ダメだダメだの大合唱からは、何も生まれはしないのだから」と、ジャーナリズムを否定するかのような文言が含まれている意見広告に、なぜ新聞社自らが名を列ねているのだろうか。このような広告が多くの新聞に掲載されたことのうちに、また掲載後に新聞社内においても、世間においても、それほど多くの反響が巻き起こっていないことのうちに、現在ジャーナリズムの置かれた複雑で深刻な問題が横たわっているように思われる(⑮)。
世間のマスメディアを見る目はいよいよ厳しく、その不満・批判を公権力がうまくすくい上げ、メディア規制の口実に使おうとしても、肝心のメディアは、足並みをそろえて権力に対峙するよりも、逆に「内ゲバ」的な、他社の揚げ足取りに終始し、結果的に自らの首を絞めるようなことを行っている(⑯)。
ここでは「表現の自由」という争点は浮かび上がってこない。情報の「送り手」と「受け手」の共存、あるいは利害対立という図式だけでは、現代の「表現の自由」を捉えることはできないからである。
第二章 サイバースペースと「表現の自由」
実はいま、「表現の自由」が問われている現場は、マスメディアとは別のところ、むしろインターネットの「サイバースペース」上にある。デジタル技術が生み出したこのサイバースペースは、高度情報社会に生きる私たちが、今後、好むと好まざるとにかかわらず、つきあっていくことになる新たなるフロンティアである。そういう観点から見ると、現在進みつつあるインターネット規制策が、「表現の自由」に大きな制約をもたらす恐れがあるにもかかわらず、その本質が十分に理解されず、あまり報道もされていないのは、きわめて不思議なことに思われる。
1 「サイバースペース」の”発見”と驚愕
昨年暮(十二月十五日)、東京の主婦がインターネット経由で入手した青酸カリを使って自殺する事件があった。主婦が自殺について情報交換するホームページを開いていたことや、送り主である北海道の男性も自殺したことなどから社会の耳目を集めた。インターネットは急速に普及しはじめた新しい情報手段だが、ごく普通の日本人がインターネット上に広がる「サイバースペース」の存在を”発見”したのは、まさにこの事件がきっかけだったといっていい。
マスメディアの論調はおおむね、インターネットは匿名で情報がやりとりされる危険なツールであり、そこには違法な、他人の名誉を侵害するような、青少年にとって有害な情報があふれており、何らかの規制が必要である、という基調に彩られていたが、新聞記事や社説に、「インターネットに深い闇」「死への意図を抱えた共同体」「ネットの暴走」といった言葉が頻繁に登場したのも、自らの発見に伴う一種の興奮、驚きだったと考えると、納得がいかないわけではない(①)。
同じころ、これはインターネットではないけれど、伝言ダイヤルで若い女性を呼び出して薬剤を投与、眠り込んだすきに金品を奪う昏睡強盗事件が起こり、寒空の下で凍死する被害者も出たため、いよいよ「情報が凶器になるとき」などと情報社会の危険な側面が強調されることとなった。
しかし、鋭利な刃物がすぐれた凶器になるのと同じで、便利な道具が犯罪に使われたからといって、その責任を道具に押しつけるのは筋違いである。刃物や車の場合はほとんど問題にされず、インターネットだと騒がれるのは、この新しい情報手段がまだ多くの人に知られず、そこに広がるサイバースペースが、物理的な「現実空間」と違って、パソコンの中にしか存在せず、したがってどことなく胡散臭い存在と見なされ、またそういう宣伝が行き渡りやすいという事情があるからだろう。
2 「現実空間」と「サイバースペース」
「サイバースペース(cyberspace)」という言葉は、ウィリアム・ギブスンが一九八四年に発表した有名なSF『ニューロマンサー』で作り出した言葉である(②)。特殊な電極を使って人間を改造し、脳とコンピュータ・ネットワークを結びつけた二一世紀末の電脳空間(サイバースペース)が舞台だったことから、コンピューター・ネットワークが作り上げる情報空間を「サイバースペース」と呼ぶようになった。サイバースペースに対して、現実の物理的世界を、ここでは「現実空間」と呼ぶことにする。
インターネットはもともとが自由な発想で発展してきたメディアで、利用者は各人の責任で行動するのを原則としてきた。Play at your own risk、これがインターネットの文化である。実のところ、インターネットを手作りのようにして育て上げてきた先住民たちは、自分たちのツールが突然脚光を浴び、そこに多くの人々がどかどかと押し寄せ、「野蛮だ」、「おおらか過ぎる」、「危険だ」と叫び、「道路を舗装しろ」、「警察官詰め所を置け」、「病院はないのか」などと騒ぎ立てるのを、いささかしらけ気分で見ている。サイバースペースの平均年齢は現実空間よりはるかに低く、しかも彼らの方が「長老」だから、後からやってきた高齢者の「新入り」との間に心理的軋轢が生まれるのもやむを得ない面がある。
しかし、便利なツールをいち早く嗅ぎつけた無法者や礼儀知らずも多く、そういう連中によってインターネットが荒らされているのも事実である。いまは「西部開拓史」の時代だが、いずれはサイバースペースにも立派な都市ができるはずである。それがすべての人に開かれた世界であるためには、インターネットというメディアの特性、およびそこに広がるサイバースペースについてよく理解しておくべきだろう。
<サイバースペースの「表現の自由」>
やはり昨年暮から今年にかけて、頻発した事件に歩調を合わせたかのように、インターネット上の情報を規制しようとする動きが加速した。今春段階での規制の動きをまとめると、以下のようになる。
①ホームページ上のわいせつ画像掲載が全国的に摘発されている。
②有料のわいせつ画像掲載を規制する改正風営法が四月一日から施行された。
③不正アクセス禁止法案が国会に提案される運びである。
④盗聴法案が国会審議中である。
⑤ホームページの内容(コンテンツ)を格付けして、「違法」あるいは「有害」なホームページを排除しようという動きが各方面で起こっている。
現実空間と同じく、サイバースペースにおいても、犯罪が起これば取り締まるのが当然だが、インターネットを利用した犯罪が急増しているから(③)、インターネットを規制すべきだと考えるのは短絡的に過ぎよう。違法な情報は排除すべきだし、青少年に悪影響を与えるような情報は、彼らの目から隔離する手だてがほしい。世界に広がるネットワークだから、国際的な協調も考慮しなくてはならない。だから犯罪防止あるいは取り締りのための規制が不必要なわけではないが、規制目的が妥当な場合にも、それを規制するやり方、規制の内容はよく吟味しなくてならない。サイバースペースにおいても、「表現の自由」は保障されなければならないのである(④)。
規制策の個々の問題点を詳述する誌面的余裕はない(⑤)。ここでは、これらの規制策が「表現の自由」を著しく制約する恐れのあること、そのことが十分に論じられないまま諸法令が整備されてしまえば、将来のサイバースペースはいびつなものになりかねないこと、そのことはまた現実空間にはね返り、私たちの首をも絞めることになることを、いくつかの論点に絞って指摘したい。
3 重い荷を背負わされたプロバイダー
サイバースペースの「表現の自由」を考えるとき、重要な位置を占めるのがプロバイダーである。プロバイダーはインターネットに接続するための回線を提供すると同時に、その多くが自己のコンピュータ(サーバー)を使って、電子メール、電子掲示板、同時対話(チャット)、ホームページなど、ユーザーの情報提供を支援するサービスを行っている。管理者としてのプロバイダーと情報提供者としてのユーザーの関係は、提供するサービス、あるいはプロバイダーの営業方針によってさまざまである。電子メールやホームページの内容にプロバイダーがタッチすることはないが、自社の電子掲示板を自ら運営している場合は、その内容に責任がないとはいえない。
またプロバイダーは電気通信事業者として「通信の秘密」を遵守すべき立場にあるが、インターネット上の通信に従来の「通信」「放送」の概念をそのままあてはめるのは無理がある。一対一の電子メールは通信だとしても、一対多の電子メール新聞もあるし、電子掲示板やホームページは一般に公開されたものである。
プロバイダーの立場は、たとえば電話会社のように、情報内容にタッチすることを禁じられ、業務上たまたま知った場合にもそれを秘密にすべきだとされ、それゆえ情報内容に対する責任は一切負わずにすむ「コモンキャリアー」なのか、あるいは書店のように、違法な内容をたまたま知ったような場合以外は責任を問われない「ディストリビューター」なのか、さらには出版業者のように、情報内容に関して提供者とまったく同じ責任を負う「パブリッシャー」なのか。それは個々のケースごとに判断するしかないが、プロバイダーが情報通路の要に位置していることで、そのサイバースペースにおける役割は大きい。
<改正風営法とわいせつ規制>
今年四月から施行された改正風営法(風俗営業等の規制の適正化に関する法律の一部を改正する法律)は、プロバイダーのいわばボトルネック的な立場を利用して、インターネットの情報を規制しようというものである。
同法は「専ら、性的好奇心をそそるため性的な行為を表す場面又は衣服を脱いだ人の姿態の映像を見せる営業で、電気通信設備を用いてその客に当該映像を伝達することにより営むもの」を「映像送信型性風俗特殊営業」と規定し、十八才未満の未成年者を客にすることを禁じたが、同時にプロバイダーに対して、自社が提供するサーバーに利用者がわいせつな映像を記録したと知ったときは、「当該映像の送信を防止するため必要な措置を講ずるよう努めなければならない」とし、公安委員会はプロバイダーに対して「必要な措置をとるべきことを勧告」できるとしている。
一般に「表現の自由」の制約が問題となる表現行為としては、わいせつ表現、他人のプライバシー・名誉などを侵害する表現、他人の著作権を侵害する表現、差別表現などがあり、「表現の自由」を法的に規制する場合は、以下の諸点が考慮されるべきだとされている。①規制により避けようとしている害悪は、明白に認められるもので、差し迫ったもの(clear and present danger)であるのか。②より多くの言論(more speech)によって解決されるべきでないのか。③規制による萎縮効果(chilling effect)を心配しなくてよいのか。④規制の範囲・方法が必要最小限度であるのか(特に、刑事罰による対処はやむをえないのか)。⑤事前規制に及ぶ場合は事後規制によっては対処できないのか。⑥経済的利益のために安易に精神的自由を制限する結果にならないのか(⑥)。
改正風営法が画像チェックをプロバイダーに委ねたことに関して、気になる点がいくつかある。まずプロバイダーに何がわいせつで何がわいせつでないか、その判断を迫ることにならないか。境界をどう判断し、どうチェックするのか。条文はあまりに漠然としており、法の「明確性」の基準に合致するといえるのか。これぐらいなら大丈夫だと判断して送信防止措置を取らなかった場合、公安委員会から勧告を受けるのであれば、プロバイダーは過度に神経質になって、あいまいなものは率先して排除する「萎縮効果」を生まないか。公権力による表現行為の「検閲」との境界も、あいまいになる可能性はないのか。電子メールによる送信をチェックすることは、「通信の秘密」を侵害するのではないか、などである。
改正風営法はこういう問題を抱えながら、国会においても、マスメディアにおいても、あまり論議されずに成立した。法に違反したプロバイダーは「勧告」を受けるが「刑事罰」は課せられないため、後に触れるアメリカ通信品位法の場合のように、憲法違反といった争点は明確に浮かび上がらないようだが、このあいまいさがかえって危険なように思われる。
4 フィルタリングの役割と自主規制
フィルタリングというのは、自分が見たくない情報、あるいは子どもたちに見せたくない情報を、受信者のパソコンに設置したソフトウエアの機能でチェックする仕掛けである。情報の取捨選択を、公権力がチェックするのではなく、「受け手」としての受信者自らで行うわけだから、フィルタリングソフトの利用は、「表現の自由」の観点からみて、むしろ推奨されるべきだといえる。
実際、フィルタリングソフトは、権力の規制を回避するために、インターネットを育ててきた技術者たちによって自発的に開発されたものである。アメリカではいくつかのフィルタリングソフトが開発され、すでに実用化している。レイティングというのは、フィルタリングのために各ホームページをランクづけすることである。
その仕組みを簡単に説明しておこう。電子ネットワーク協議会などが採用しているのは、①受信者が、セックス、ヌード、暴力、言葉といったジャンルごとに、自分が許容できる範囲をあらかじめパソコンに設定しておく。②ネットにアクセスすると、パソコンはまずホームページのレイティングを行ったサーバーからランク付けしたデータを入手する。その基準が設定値と比べて低ければ(許容できれば)ホームページに接続し、高ければ(許容範囲を越えていれば)拒否(ブロック)する。③レイティングは、第三者機関ばかりでなく、受信者自ら設定できるし、情報発信者が設定することもできる、④レイティングは、担当者が実際にホームページを見て判定する、といった方式である。
フィルタリング・ソフトには、特定のキーワードを含むホームページを機械的にブロックするものもある。
<使いようによっては両刃の剣>
この一見問題がなさそうなフィルタリングやレイティングにも、大きな落とし穴がある。一つはキーワードでホームページをブロックすることの妥当性である。「猥褻」で法律関係ページを遮断し、「ヌードマウス」で医学関係ページをブロックし、といった過剰チェックをどうして防ぐか、そもそも防ぐことは可能なのか。いろんな工夫がなされるだろうが、技術が未熟なほど排除する必要のないページを切り捨て、そのことで「表現の自由」を侵害し、しかもその事実を明かさないという、たちの悪い結果になる。
もう一つは、どのようなフィルタリングであろうと、運用次第では「表現の自由」を制限する危険があるということである。この機能は、主として青少年を有害な情報から隔離しようとするものだから、学校で個々のパソコンごとに設定するよりは、学校全体として一括設定した方が効率的だ。この一括設定は、実はプロバイダー段階でも行える。ホームページの検索サービスで、すでにこの機能を導入しているところもある(⑦)。
プロバイダーないしは検索サイトが、それぞれ独自のレイティングを行い、利用者は自分の好みに応じたプロバイダーなり検索サイトを選択できれば、そしてフィルタリングを一切かけない選択も保障されていれば、問題はない。多元的な価値観のもとに、多くのサービスが競い合う多様化、差別化が進むのであれば、むしろ歓迎すべきだといえよう。しかし、プロバイダーの価値判断がすべて統一されたり、検索サイトが一つしか存在しないような場合は、重要な「表現の自由」の侵害となる。そのようにして公権力によるレイティングが強制される恐れがあるのである(⑧)。
警察庁関連の「ネットワーク上の少年に有害な環境に関する調査委員会」(座長・磯部力東京都立大法学部長)が昨年十月に公表した報告書は、その点で「格付けのガイドライン策定を行う公的裏付けを持った第三者機関の設置検討」を提言している点で警戒すべきだと思われる。改正風営法では有料情報しか規制できないため、新たに「有害情報の格付けを行った上で、情報監視と選別、および取り締まり」を行うことをめざしているが、公権力によるコンテンツ規制、事前検閲に結びつく危険性を認識しておくべきだろう(⑨)。
公権力の介入を防ぐための自主規制の道具も、その仕組みや使い方によっては検閲の道具に転化する「両刃の剣」であることを忘れてはならない。
第三章 「表現の自由」原理論の再構築と「サイバー・リテラシー」
もう十年以上前、憲法学者、奥平康弘は、「なぜ『表現の自由』は特別なのか」という争点を「表現の自由の原理論」と呼び、アメリカではこの原理論が盛んなのに、なぜ日本では「不毛または不活発」なのかを問い、その理由として以下の二点を上げた(①)。
①「表現の自由」は―他の諸権利・自由と比較して―特別に保護されるべきだという要請が、日本では十分には支持されていない。
②「表現の自由」が戦後、日本国憲法によって突如保障されたたために、人々の関心は、この法概念を実践上どう用いるか(保障範域をはっきりさせる、how muchの議論)に置かれ、「表現の自由」は所与のものとされ、なぜ保障されるかという根拠を問う作業(whyの議論)が疎かになった。その状態が今も続いている。
著者は「whyを問題にするためには、一種の衝撃が必要である」と述べ、「表現の自由」原理論へと筆を進めているのだが、いまインターネットの規制問題をめぐって、その「衝撃」が世界同時に押し寄せているといえないだろうか。いささか大げさだが、その衝撃をどう受け止め、「表現の自由」原理論をどう再構築するかが、いま問われているのではないだろうか(②)。
1 アメリカ通信品位法違憲判決と「思想の自由市場」論
「表現の自由」原理論への衝撃に正面から応戦し、明快な回答を出したのがアメリカの通信品位法をめぐる違憲判決だといえよう。
「通信」と「放送」の融合といった新しい事態に対処するために、アメリカ議会は一九九六年、電気通信法(Telecommunications Act of 1996)を成立させたが、その一部を構成する通信品位法(CDA=Communications Decency Act)で、未成年者に有害な情報が渡らないようにするため、「インターネットで品性下劣な通信を流した者は、十万ドルの罰金、禁固二十年までの刑を科す」などが定められた。これに対して、アメリカ自由人権協会(ACLU)などの民間団体が、法律が違憲であることと執行差し止めを求めて提訴、同年六月、フィラデルフィア地裁が「連邦憲法修正第一条(言論や出版の自由を制限するような法律を制定してはならない)に違反する」との判決を出し、連邦最高裁も翌六月にそれを支持したものである。
条文中の「下品な(indecent)」および「明らかに不快な(patently offensive)」という文言が過度にあいまいであるとされたためだが、地裁、最高裁ともに、判決文はインターネットについて「歴史が生んだ最大の大衆参加型メディア」「中身は人間の思想に相当するほどに多様である」などと評価し、さらに「インターネットには政府の妨害から最大限の保護が与えられるべきである」「CDAは青少年を有害情報から守ろうとして、憲法上認められた成人の表現行為を抑圧しようとしている」「保護者段階でフィルタリングソフトを導入して有害情報をシャットアウトするといった、現在試みられつつある努力を無視している」などと格調高く述べている。
<真理と虚偽とを組打ちさせよ>
そして最高裁判決は最後に、「思想の自由市場」理論に触れた。「真理と虚偽とを組打ちさせよ」と叫んだミルトン(『アレオパヂティカ』)やJ・S・ミル(『自由論』)の思想を引き継ぎ、アメリカ最高裁判事、O・W・ホームズによって定式化されたとされる「思想の自由市場」理論とは、大筋において「思想の評価は、政府が関与することのない言論間の自由競争によるべきである。表現には表現(モア・スピーチ)で対抗すべきであり、『表現の自由』の制約は、『思想の自由市場』に委ねておくことができないような重要な害悪が発生する『明白かつ現在の危険』がある場合に限られるべきである」というものである(③)。
インターネットという新しいメディア登場にあたって、「思想の自由市場」理論がふたたび脚光を浴びたことには、「表現の自由」を守ろうとするアメリカの伝統の力を感じさせられる。まさしく今やらなくてはならないことは、このサイバースペースを視野に入れて、「表現の自由」の原理論を改めてとらえなおすことであろう。
何が有害な情報で何がそうでないかも、個人の責任で判断するのが原則である。その判断をくだすためにも、あらゆる情報に開かれていることが大切なのである。未成年者の保護は心がけなければならないが、公権力がそのことを口実に、成人も含めて一定の情報から隔離しようとするのは、悪しきパターナリズムであり、ここには、「国家権力だけが社会秩序の維持に任じているのではないという多元的な国家観、社会はさまざまな制度から成る寄り合い世帯だと見る多元主義」(④)の考えがきわめて希薄だということである。
2 サイバースペースは現実空間の鏡
サイバースペースは現実空間の鏡である。だから、この地上における明暗、善悪、美醜、聖俗、正邪、あらゆるものがサイバースペース上にも存在する。己の醜い姿を見せつけられて、鏡に向かって石を投げつけたところで、現実の事態は何も変わらない。
サイバースペースには物理的境界がない。現実空間では、地理的空間や時間帯に隔てられて、ひとは昼間から紅灯の巷に足を踏み入れないし、小学校の隣にラブホテルが建ったりすれば社会問題になる。ところがサイバースペースでは、日本の会社の隣がパリの歓楽街で、アメリカの小学校の隣がどこかの国の秘密兵器工場といった具合に、リンク一つで瞬時に行き来できる。それは確かである。
しかし、サイバースペースに踏み込めば突然、このような風景が目に飛び込んでくると思うのは間違いである。インターネットを楽しむためには、プロバイダーに加入して、ブラウザーとか電子メールソフトをそれなりに設定しなくてはならない。ある目的を持って行動してはじめて情報が手に入れられるので、電源を入れてチャンネルを回せば、たちどころに情報が先方から飛び込んでくるテレビやラジオとは、メディアの仕組みが違う。
インターネットは、普通に使っていれば、自分が望まない情報に出くわすことはあまりない。ただ、「見たくないものは見なくてすむ」自由も保障されなくてはならず、そのために、サイバースペース上の倫理の確立、フィルタリングソフトをはじめとする技術的解決など多様な解決法を模索すべきであり、犯罪防止を前面に打ち出した法規制は、「表現の自由」を侵害しかねないだけに、きわめて慎重でなくてはならない。
サイバースペースの構造をもう少し立体的、重層的に、あるいは多元的に築き上げることも必要だろう。インターネットでの商取引が盛んになれば、セキュリティ面がより重視されるだろうし、もっと早く情報が流れる幹線道路がほしくもなるだろう。一方で、いまのような牧歌的なサイバースペースをのぞむ人もいるはずだ。そうなれば、より明確なサイバースペースの区分けも考えた方がいい。もちろん隔離されたネットワークでは意味をなさず、そういったサイバースペースの組織論は、まず何よりもサイバースペースの理解、メディア・リテラシーにならっていえば、「サイバー・リテラシー」に裏打ちされなければならない(⑤)。
<ブタを焼くために家を燃やす>
サイバー・リテラシーについては改めて論じるつもりだが、サイバースペースの犯罪防止策のみが先行する現在の動きがいかにいびつであるかは、もはや明らかだろう。規制強化策は、育てるべきサイバースペースを逆に殺しかねず(CDA判決では「ブタを焼くために家を燃やす”`burn the house to roast the pig.'”」という表現を使っている)、サイバースペースで「表現の自由」が死ぬとき、現実空間のそれも大きな変質を迫られるだろう。
現実空間とサイバースペースの棲み分けは、これからの私たちが知恵を絞らなくてはならない大テーマであり、そういった全体状況の中でマスメディアのあり方を問い直すことができれば、多メディア化の中で見失いつつある自らのアイデンティティを回復する道もまた開かれるだろう。それは「表現の自由」の原理論を再構築すべきだとの提言とも重なり合うはずであり、取り締まり当局の尻馬に乗るような安易な規制推進論にも再考を促すことになると思われる。(敬称略)
<注>
第一章
①「(かつては)書物は他のすべての生れ子と同じく、常に自由に世に出ることを許されたのである。すなわち頭脳の産児は子宮の産児と同じく窒息させられることはなかった」という有名な言葉がある(石田憲次ほか訳『言論の自由』岩波文庫)。この書は絶版だが、訳者の一人として朝日新聞社の大先輩、上野精一氏が名を連ねているのは感慨深い。
②「近代法の原則は、法は人間の行為を規制するものであり、個人の心の内までは及ばない、とする。したがって、内心の問題は絶対に自由でなくてはならない」(長谷川正安『日本国憲法』岩波新書、1994)。
③奥平康弘「ジャーナリズムと法律」(『表現の自由Ⅱ』有斐閣、1984所収)。
④弘文堂『社会学事典』(1988)は、ジャーナリズムを「時事的な事実や問題に関する報道や論評の収集・加工・伝達活動」と説明している。
⑤たとえば一九六八年の博多駅事件付審判請求審理をめぐるニュースフィルム提出事件。福岡地裁がテレビ四社に当時のニュースフイルムの任意提出を求め、報道会社がこれを拒否すると、最高裁が提出命令を出して強制的に差し押さえたもので、翌年の最高裁大法廷決定は、「報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法二十一条の精神に照らし、十分尊重に値するものといわなければならない」と、大法廷としてはじめて国民の「知る権利」を報道の自由の基礎に据えた(フィルム提出命令そのものは合憲とした)。
もう一つ、「外務省公電漏洩事件」と呼ばれるものがある。一九七二年、毎日新聞記者が外務省女性事務官を通じて、日米間の沖縄返還協定の極秘電文を盗んだとして、女性事務官が国家公務員の守秘義務違反、記者が秘密漏示教唆罪の疑いで逮捕された。問題の電文が日米間の「密約」であったことから、国家機密と「知る権利」の兼ね合いが問題になったが、最終的には両者とも有罪になった。記者がその密約を直接記事にせず、野党代議士に流したことも、報道の姿勢として禍根を残した。この事件は本来、「外務省密約電文暴露事件」とでも呼ぶべきものであろう。
⑥「これまでのジャーナリズム概念では、『人びとの公共生活に必要な社会性の強い情報の伝達活動』というところに焦点が置かれてきた。それがマスメディア、とくにテレビの発達によって、娯楽、教養、趣味など、人びとが個人的にエンジョイする私的情報の分野が増え、ジャーナリズムの周縁が拡大した。ジャーナリズムは実態として、次第にマス・コミュニケーションと同義語に近づきつつある、ということができるのではないか」(原寿雄『ジャーナリズムの思想』岩波新書、1997)。
⑦「アクセス権論は、従来政府の規制が存在しないことが言論の自由だと考えられてきたことを批判し、実際に自由を確保するためには政府による規制が必要だとして、発想の転換を求めた」(松井茂記『マス・メディア法入門[第2版]』日本評論社、1998)。
⑧センセーショナルな報道の典型は、一九八四年から八五年にかけての「ロス疑惑」だろう。舞台はおもにテレビのワイドショーで、「報道の芸能化」が推進されたが、新聞も含めて、報道と人権をめぐる問題が大きくクローズアップされた。村田歓吾「埋めがたい新聞と週刊誌の溝」(『朝日総研リポート』1998・12)によると、三浦被告(殴打事件の殺人未遂罪は確定。銃撃殺人事件は東京高裁で無罪になり、現在最高裁で審理中)は、メディア相手に名誉毀損など約二百六十件の民事訴訟を起こしている。関連した複数の訴訟がまとめて審理されることもあり、すでに出された一審判決が百九十五件。その約六割、百十五件でメディア側が負けている。「多くは記事(報道)内容が真実と証明されず、かつ、報道する側が真実と信じる相当の理由があったと認められない、つまり、事実かどうか分からない事柄を、報道機関としてなすべき取材・確認の努力をせずに報じたと裁判所が認定し、その内容が名誉毀損と断じられた」。
その後のオウム真理教にからむ松本サリン事件でのぬれぎぬ報道、和歌山の毒入りカレー事件などでも同種の問題が起こり、最近の脳死移植報道でも、関係者のプライバシーをめぐって報道姿勢に強い批判が起こった。
⑨テレビ各局が朝から夜まで放送を始めた一九六五年以来これまでの三十五年間で、国民の一日のテレビ視聴時間は、平均して最短が三時間(八五年)、最長が三時間四十五分(九五年)、その幅は四十五分しかないという(長屋瀧人「脳の『器と味覚』が番組を選ぶ」『論座』1998・1)。ニュースの増大、番組の充実や多様化、放送時間増、テレビ局の増加など「送り手側の量的拡大にもかかわらず、視聴時間量の変動は驚くほど少ない」。この傾向はメディア全体にも適用できるだろう。人が情報活動にさく時間は、メディアの種類がいくら増えようと、それほど増えないのである。
⑩エスター・ダイソン『未来地球からのメール』(吉田正晴訳、集英社、1998)。
⑪昨年、米クリントン大統領のセックス・スキャンダル報道が個人のホームページによって明るみに出され、さらには捜査報告書全文も議会のホームページでいきなり公表された一連の事件は、メディア史上画期的だといえよう。
⑫当然のことながら、すぐに「マスメディア」がなくなるわけではない。拙著『マス・メディアの時代はどのように終わるか』(洋泉社、1998)は、現在のメディア状況を整理しながら、新しいメディアの時代に対応した既存マスメディアの変身、自己変革を促したものである。
⑬川島正は新しいメディア企業について次のように指摘している。「かれらが携わるソフト事業は、メディアであれば当然考えるべき憲法二十一条・表現の自由とは無縁であり、むしろJIS(日本工業規格)製品に近い。表現の自由を主張するなど、トラブルを起こしかねないソフトクリエーターやジャーナリズムは敬遠され、工業製品のような規格品が好まれる」(「異業種巨大資本とマルチメディア」『講座 21世紀のマスコミ⑤マルチメディア時代とマスコミ』所収、大月書店、1997)。
⑭データは『新聞協会報』(1999・3・22)による。
⑮新聞掲載当日におけるテレビTBSのキャスター、筑紫哲也の発言、『週刊文春』(1999・4・1)における野坂昭如のコラムなど、批判がなかったわけではない。広告不況下という新聞の状況をうまく突いた広告会社の慧眼(?)はともかく、新聞社も世間も、まるで音無しのようなこの状況は、「日本社会では社会全体の舵の向き方がおかしな方向にいくときに、あれよあれよという間に流されていくということをわれわれは痛切な経験として持っています。『ノー』という声が起こらない」「日本では、公権力自身が直接言論弾圧をするという形ではなくて、人々が世の中に向かって『ノー』と言えないような雰囲気がおのずといつの間にかできあがってくる。これは、一九三五年に美濃部達吉の天皇機関説が国禁の説として弾圧されたときの経過一つをとっても、同じです」(樋口陽一『もういちど憲法を読む』岩波セミナーブックス、1992)という発言を、リアリティを持って想起させる。
⑯今年二月から三月にかけてのテレビ朝日ダイオキシン報道をめぐる新聞各社の論調参照。同じような例は、一九九六年暮れから九七年にかけてのペルー大使公邸襲撃事件の取材を通しても見られた。
第二章
①インターネットのホームページを、「自殺」というキーワードで検索すると二万件以上の情報が入手できる。……。「殺人」で検索すると約三万四千件の情報が入手でき、「四十八の殺人技」など刺激的な内容が目につく、といった社説があったが、ネット上では「この『四十八の殺人技』というのは、おそらく『暮しに役立つ48の殺人技』というパロディーサイトではないか」と話題になった。「サイバースペース大発見」にともなう微笑ましいエピソードとして記録に値するかもしれない。吉本秀子「毒物事件で問われるネット社会」(朝日新聞1999・1・20夕刊)など、冷静な対応を呼びかけた記事がなかったわけではない。
②『ニューロマンサー(neuromancer)』(黒丸尚訳、ハヤカワ文庫、1986)。
③インターネットが普及するにつれて、インターネットを利用した犯罪が増えているのは事実である。警察庁の資料によると、昨年一年間に全国の警察が摘発した「ハイテク犯罪」は四百十五件、一昨年の二百六十二件に比べて五割以上増えているという。
④高橋和之(東大教授)は「インターネットと表現の自由」(『ジュリスト』1117号、1997)という論考の中で、「表現の自由の保護を十分に顧慮しないまま電子情報システムができあがってしまえば、その設計を後から組み替えるのはきわめて困難になろう。技術が将来のシステム設計図を模索しながら展開しつつある今のうちから、模索の考慮要素として表現の自由の要請を組み込むことが必要なのである」と指摘している。
⑤不正アクセス禁止法案<不正アクセス行為の禁止などに関する法律案>、盗聴法案<犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案>については、本リポート(1999・2)の松浦康彦「盗聴法と不正アクセス法の行方と問題点」参照。
⑥藤田康幸弁護士のホームページ「プライム・ロー」参照(http://www.ne.jp/asahi/law/ y.fujita/)。
⑦アメリカの検索サイトGO(元のinfoseek)は、ディズニー傘下に入ったのをきっかけに、家族向けの健全サイトをめざしたフィルタリング・サービスを導入している。
⑧中国、シンガポールなどインターネットを規制している国々では、自国に有害だと為政者の考える情報が、そのような方法で遮断されている。
⑨牧野二郎弁護士は、「情報の格付けを国家、行政機関が行えば検閲に当たる。情報を受け取る側が受け取りたい情報を選択する権利を保障することで、可能な限り発信情報を制限しないというのが、本当の個人責任の原則でもある」と言っている(「少年の保護とは一体なにか―ネットワーク上の『言論統制』と報道」『新聞研究』1999・2)。
第三章
①奥平康弘『なぜ「表現の自由」か』(東京大学出版会、1988)。
②「表現の自由」原理論の再構築については、山口いつ子「サイバースペースにおける表現の自由」(「東大社会情報研究所紀要」51号)、「同・再論」(同53号)を参照。同「コンピュータ・ネットワーク上の表現の自由」(『ジュリスト』増刊『変革期のメディア』所収、1997・6)にはアメリカ通信品位法をめぐる地裁判決との関連も論じられている。
③「思想の自由市場」理論については、松井茂記『マス・メディア法入門[第2版]』、山口いつ子「『思想の自由市場』理論の再構築」(「マス・コミュニケーション研究」43号)参照。
④奥平康弘『憲法Ⅲ 憲法が保障する権利』(有斐閣、1993)。
⑤CDA最高裁判決の少数意見で、オコナー判事がサイバースペースの「区分け(zoning)」について論じているのは興味深い。