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2005年04月12日

ブログとマスメディアと新しいジャーナリズム<『新聞研究』2004年11月号所収>

アメリカの人気作家、マイケル・クライトンが、「ある日突然、恐竜が地上から姿を消したように『もう一つの恐竜』マスメディアも早晩消え去るだろう」と述べたのは、もう10年以上前、1993年のことである。映画にもなったベストセラー『ジュラシック・パーク』にちなんで「恐竜(dinosaurs)」の比喩を使ったもので(米ナショナル・プレスクラブでの講演)、後に雑誌に掲載されたときのタイトルは「メディアザウルスMediasaurus」だった。彼がつけた「10年以内に跡形もなく」という限定はともかく、その予言は大筋において当たる可能性が強い。それが証拠に、メディア環境はただいま現在、激変している。

新聞産業で働く多くの人びとは(ジャーナリストも、経営者も他の従業員も)この事実から目をそむけることはできないし、そうすべきでもない。むしろ新しいメディア状況のなかで自らのアイデンティティをどう再構築するかが、ジャーナリズムの雄を自負してきた新聞の新たなる使命だと思われる。

9・11後に増加したウエブログ

最近、ブログ(weblogの略、ウエブログとも呼ばれる)というインターネット上の情報発信ツールが話題になっている。

これは、言ってみれば、ホームページ(ここではウエブとほぼ同じ意味で使う。発信主体に重点を置くときはサイトと呼ぶこともある)の簡略版で、日々の記録や雑感、趣味に関する情報を記したり、興味を引いた関連情報にリンクを張ってコメントしたりする日記風のページである。新しい記事ほど上部に掲載されるようになっている。

自分でブログ用のソフトを入手してパソコンにインストールし、専用サーバーを使っている例や、より簡単にブログを作成できる出来合いのホスティング・サービスを利用したものがある。従来のホームページを作成するには一定の技術(言語の知識)を必要としたが、ブログはワープロで書いた記事(や写真)をそのまま公開できるため、技術者、学者、弁護士、ジャーナリストなどの専門家ばかりでなく、一般の個人、NPOなどの団体なども急速に利用し始めている。

2001年のアメリカ同時多発テロを機に、自分の意見を発表したり、マスメディアが報道するのとは違う、自分が実際に見聞した事実を知らせようと、ブログを利用する人が増えたと言われている。ブログ用ソフトの一つである「ブロッガー」の開発者は「セプテンバーイレブン以降、戦争や国際政治について質の高い解説や論評を行う『ウオー・ブログ』が多数開設されるようになった」と述べている(1)。

個人が情報発信できるインターネットの可能性をより徹底的に実現した道具がブログで、ここへきての爆発的な普及は、マスメディア中心だった従来のメディア状況をいよいよ根底から覆しかねない様相を見せ始めた。

欧米でジャーナリストや既存メディアがブログ発信を進めている例を紹介しながら、ジャーナリズムとしてのブログの可能性、それが既存メディアやジャーナリストに与える影響などを考えてみよう。

草の根ジャーナリズムの包囲

アメリカのジャーナリスト、ダン・ギルモアは熱烈なブログ実践者である。ニューヨーク・タイムズなどでフリーランスをしたり、いくつかの地方新聞で働いたりした後、1994年からサンノゼのマーキュリー・ニューズで技術コラムニストをしており、ブログを使い始めたのは1999年からだ。「eジャーナル」と名づけてニュースや解説などを1日に3本から4本アップしている。記事の公正さ、正確さなどは紙メディア執筆と同じ基準を守りながら、速報性を重視して、記事は比較的短く、その分、読者とのインタラクティブな意見交換を重視している。

彼のブログを見れば、他のジャーナリスト、技術者、アーティストなどのブログへのリンク集があるから、ジャーナリズム関係のブログ発信のだいたいの様子がわかるだろう。

ギルモアは、これまでのブログ活動の経験をもとに最近、『We the Media: Grassroots Journalism by the people, for the people(われらがメディア:みんなのためのみんなの草の根ジャーナリズム)』という本を書き、勃興しつつある新ジャーナリズムの理論化を試みている。ブログであらかじめ内容を公開し、多くの人の意見も取り入れて書き上げたものだが、そこで彼はこんなことを言っている(2)。
ブログは新しい「市民ジャーナリズム」の時代を開くだろう。これまで情報の受け手だった人びとが自ら情報を発信し始めた「草の根ジャーナリズム」は、ニュースにおけるビッグメディアの独占状態を取り除きつつある。ニュースはこれまでの講義調から会話調、あるいはセミナーのようなものに変わり、何よりもインタラクティブな交流が重視される。プロのジャーナリストにとってはこれから、事実を集めそれを報道するのと同じくらい、多くの情報を取捨選択しそれに筋道をつける作業が重要になるだろう。

それは、アルビン・トフラーが20年以上前に指摘した「プロシューマー(生産者=消費者)の時代」がメディアの世界にも波及してきたということでもある。コンピュータ・プログラムの世界におけるオープンソース運動に共鳴しているギルモアは、新しいジャーナリズムを「オープンソース・ジャーナリズム」とも呼んでいる。

 オープンソースというのは、プログラムのソースコードをネットワークで公開(オープンに)して、多くの人が協力して、より良いプログラムを開発、それをまた多くの人が利用しようという、言ってみれば、プログラム共有化の運動である。その成果としての「リナックス」についてはご存知の方も多いだろう。

オープンソース運動のリーダーの1人、エリック・レイモンドは「伽藍とバザール」という論考で、リナックスの立派な出来栄えと急速な普及の秘密はコミュニティによる開発方式にあるとして、「これまでのソフトウエア開発は、閉じたヒエラルキー的な組織で進められるいわば伽藍(カシードラル)方式だったが、リナックスは、みなが寄ってたかって作り上げるバザール(市場、マーケット)方式であり、これこそがネットワーク社会におけるソフトウエアの開発、流通方式だ」と指摘した(3)。

プログラムの世界は、いま大伽藍であるマイクロソフトの独壇場でもあるが、リナックスはマイクロソフトのOS、ウインドウズを徐々にではあるが、確実に包囲しつつある。既存マスメディアは伽藍、ブログ・ジャーナリズムはバザールだと言えなくもないが、両ジャーナリズムの関係について、ギルモアは「既存マスメディアが、その良質な部分を守りながら新しいジャーナリズムを後押しする」ような良き補完関係を探ろうとしている。

サイバー空間は「個」をあぶり出す

私は現代IT社会を、インターネット上の新しい情報空間「サイバースペース」と物理的な「現実世界」の相互交流する姿としてとらえ、これからは、デジタル技術が築き上げたサイバー空間の特性を理解すると同時に、サイバー空間によって現実世界がどのように変容するかを考察することが重要だと考えている。その能力および考え方が「サイバーリテラシー」で、そこで強調していることの一つが「サイバー空間は『個』をあぶり出す」事実である。

たとえば、検索というデジタル技術のすぐれた機能を考えてみよう。検索は膨大なテキスト群の中から特定のキーワードを含む文章を瞬時に選び出してくれるが、それはそれらのキーワード(およびテキスト)が、埋め込まれていた構造からいったん解体され、新たに再構成されることを意味する。

この「解体と再構成」の対象は、そのまま現実世界の住人にも及び、私たちは既存の組織や共同体からいったん解き放たれ、サイバー空間によって新たにふるいにかけられる。すべてがいったん「個」に還元される、あるいはされざるを得ないのが、これからの私たちの生き方だと言えよう。そこでは当然、「個」の情報発信も活発になり、社会におけるパーソナルメディアの比重はいよいよ高まる。
ブログなどのパーソナルメディアと既存マスメディアが錯綜する現下のメディア状況を「総メディア社会」とも表現してきたが(4)、総メディア社会とは、マスメディアだけが情報の流れを独占してきた時代の終わりでもある。

一方で、総メディア社会は既存マスメディアそのものにも激しい変容を迫っている。参加資本の動きを見ても、コンピュータメーカー、大規模な通信インフラ産業、エンターテイメント企業、大手商社といった、これまではメディアと縁のなかった企業群が国境を超えて参入しており、それはマスメディア企業の体質にも大きな影響を与えている。その激動のなかで既存マスメディアのジャーナリズム性が著しく低下しているのは、アメリカ、ヨーロッパ、日本などすべてに共通する残念な、というよりも憂慮すべき傾向である。

また情報のデジタル化はメディアとメッセージを分離し、メッセージはメディアを離れて流通する(たとえば記事は新聞だけではなくオンラインでも提供される)。そのことはメディア企業(新聞)とメッセージを生産するジャーナリスト(新聞記者)とのつながりをもゆるやかなものに変えるだろう。

ギルモアはマーキュリーズの社員だが、本紙に執筆した記事はそのオンライン版にも掲載され、しかも個人ブログでも発信している。ブログなどを使った個人の情報発信は、そのような大きなうねりのなかでとらえられるべきである。

欧米有力紙もブログ発信

英ガーディアンのニュースサイト、「ガーディアン・アンリミテッド(Guardian Unlimited)」は2001年からブログ発信を始めているし、米ニューヨーク・タイムズもオンラインのワシントン版で2004年1月から大統領選に関するブログ発信「タイムズ・オンザトレイル」(TIMES ON THE TRAIL)を始めた。AP通信もローカルレベルでのブログ導入を検討しているらしい(5)。

既存マスメディアもブログ発信に乗り出したり、それを検討したりしているのは、彼らが新しいメディア潮流をかぎ分け、そこに何らかの可能性を見出しているわけだが、組織と資力を誇る巨大メディアが、その対極にあるとも言えるパーソナルメディアを自らのうちにどう取り込めるかは、なかなか難しい挑戦でもあろう。

ガーディアン・アンリミテッドはニュース、ゲーム、ガイド、オンラインの4つのブログを運営しており、ニュースブログでは記者、編集者など十人が世界のニュースを投稿したり、多くのウエブサイトから興味深い記事を見つけてリンクを張り、それにコメントしたりしている。一筆者はブログについて「私たちは異なるジャーナリズムを形づくることを見つけた。基本的な基準にそい、表現の正確さを保っているが、編集者の役割は減ってきている(より自由になっているということらしい)。読者はだれでも記事にコメントをつけることができるし、私たちもそう望んでいる。それはニュースを討論に変えるチャンスであり、私たちの書き方に影響を与える」と述べている。

ブログでは記者個人の自由度が高まり、全体にくだけた感じになるのも事実のようだ。ニューヨーク・タイムズのブログ発信を紹介した記事によると、「執筆者たちはわざわざ文章にくだけた一言を混ぜ込んで、ブログらしさを出そうと工夫している」、「従来ならコピーエディターが卒倒しそうな俗語的な表現も使われている」らしい。

マスメディア関係者ばかりでなく、法律、経済、言語、スポーツ、演劇などあらゆるジャンルの専門家が、それ自体立派なメディアといえる中味の濃いブログを公開していることは、ジャーナリストにとって別の意味で脅威ともなろう。

誌面の関係で詳述することはできないが、法律分野では、著作権問題などで精力的な活動を続けるスタンフォード大学教授、ローレンス・レッシグや、やはり法学者のグレン・レイノルズといった人びとのブログが有名だし、具体的なプロジェクトやNPO活動でブログ発信をしている例は枚挙にいとまがない。
 もっとも、個人やグループによるインターネット上のジャーナリズム活動(「オンライン・ジャーナリズム」)は、これまでもホームページなどを通してさまざまに展開されてきた。たとえば韓国では「市民ジャーナリズム」を標榜するOhMyNewsが有名である。2000年から「すべての市民がリポーター」をモットーに、医者、学生、大学教授、主婦など二万六千余名の素人記者や専門記者たちが、国内外のニュース、事件・事故、日常雑記などを投稿し、それなりの影響力を発揮しつつある。

だからブログ登場の意味は、インターネットの可能性をより徹底させ、その作業を簡易化したことで、個人で情報発信しようとする人びとを圧倒的に増やした事実に求められる。しかもその意味は、きわめて大きい(日常雑記やおしゃべりのようなものであっても、自らの記事を通じて見知らぬ人びとと意見交換できる)。

これからのジャーナリズムは、こういったメディアの全体状況の中でとらえなければならない。その中での自らの役割を模索していくのがマスメディアの、あるいはそこで働くジャーナリストのとるべき道とも言えよう(「草の根ジャーナリズム」はそれぞれが勝手に好きなことを書いている意味で「無編集メディア」と言えるが、逆に、お互いに誤りを指摘したり訂正しあったりできるという意味では「相互編集メディア」でもある)。

ギルモアがジャーナリスにとって「多くの情報を取捨選択しそれに筋道をつける作業が重要になる」と言っているのも、ここにプロのジャーナリストの一つの使命を見つけようとしているのだと思われる。

ブログの日本的特性とマスメディアの役割

日本においても、もちろんブログ発信の例が増えている。最近では、イラクで人質になった3人の日本人をめぐって、マスメディアやインターネットの巨大匿名掲示板、2ちゃんねるを舞台にさまざまな意見が闘わされていたころ、それらはブログでも話題になった。アメリカ在住の女性コンサルタントや関西の若者が運営するブログでは(6)、率直な意見や具体的な提言が行われ、それに多くのコメントが書き込まれていた。日本国内だけでなく海外からもアクセスがあり、外国の事情も報告されるなど、マスメディアの論調よりも具体的、かつ洞察力に富むコミュニケーションが展開されていたとも言える。

もちろん技術者、法律家、事業家、研究者などが質の高いブログ発信を続けている例もけっこうある。そこに欧米と同じく、新しいジャーナリズムの萌芽を見ることもできよう。

だが、日本におけるブログ発信の多くは「共同ブログ場」に出かけて、仲間うちで日々の出来事や共通の趣味などをめぐっておしゃべりする傾向が強く、欧米的な「個」が直接社会に向けて意見を発信するといった例は少ない。この点については別のところで詳しく書いたので(7)、興味のある方はそちらを参照していただきたいが、この事実はまた、日本におけるマスメディアの今後のあり方にも大きな示唆を与えると思われる。

これもかいつまんで言えば、日本におけるブログ発信がただちに「草の根ジャーナリズム」とか「オープンソース・ジャーナリズム」などを形成する可能性はきわめて小さい。これからのジャーナリズムは、マスメディアとそこで働く(あるいはフリーの)ジャーナリスト、そして個人によって担われるだろうというのが私の見方だが、とくに日本においては、なお既存マスメディアとそこで働くジャーナリストの役割が大きいだろう。

だからこそ、新聞産業で働く人たちは、新しいツールに安易に手を出し、結局はお茶を濁すだけで終わってしまうといった従来ありがちだったやり方ではなく、新しいメディア状況のなかでいかにして自らのアイデンティティを再構築するか、その過程で社会全体のジャーナリズム機能をどう強化できるかといった方向で試行錯誤すべきだと思われる。

個人の力は集まれば巨大だが、一人ひとりの力は小さい。豊富な資金と優秀な人材と組織力を動員して権力悪に立ち向かうような息の長い調査報道を、個人レベルで遂行することは難しい。また、インターネット上の情報は玉石混交で、判断の基準を提示するプロの役割もまた大きいだろう。

企業内ジャーナリストが個人ブログを開設するのを新聞社が規制するのはもはや時代錯誤と言っていいが、新しい時代のジャーナリズムは、マスメディアとそこで働くジャーナリストによっても築かれるべきなのは間違いない。

(1)エヴァン・ウィリアムス インタビュー「ブロッグと大手メディアは互いに補完しあう」
(2)http://weblog.siliconvalley.com/column/dangillmor/参照。なおasahi.comにギルモア・インタビューが掲載されている(http://www.asahi.com/tech/sj/w_media/01.html。インタビュアーは平和博記者)。「We the media」Introduction(http://www.oreilly.com/catalog/wemedia/chapter/ch00.pdf)。なお「We the media」のブログはhttp://wethemedia.oreilly.com/。
(3)山形浩生訳。原文はhttp://www.catb.org/~esr/writings/cathedral-bazaar/。光芒社から出版もされている。
(4)詳細は拙著『インターネット術語集Ⅱ』(岩波新書、2002)の第4章「総メディア社会の到来」、および『サイバーリテラシー―IT社会と「個」の挑戦』(日本評論社、2001)のPART4「サイバースペースとメディア」を参照いただければ幸いである。
(5)http://www.paidcontent.org/pc/arch/2004_09_24.shtml参照。
(6)On Off and Beyond「イラク人質とワタシ」(http://www.chikawatanabe.com/blog/ 2004/04/post_13.html)、Synergie「日本は異常?海外では?」
(7)「サイバー空間で肥大する『世間空間』」(『法学セミナー』2004年9月号所収)。
*この論考を書くにあたっては、それこそ多くのホームページやブログを参照させていただいた。とくにメディア研究家、伊藤政行氏のブログ、「世界のメディア・ニュース」からは貴重な情報を得た。

<注記>ブログに掲載するにあたり、リンクが張れるものにはリンクを張るなどの手を入れたので、紙の原稿に掲載された文章と注の番号などは異なっている。また縦書き表記を横書き用に改めた。

投稿者: Naoaki Yano | 2005年04月12日 17:10

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