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2005年05月22日
運転士はなぜ現場を離れたか
またJR福知山線の事故の話である。
事故車にたまたま同乗していたJR西日本の運転士2人が救助活動をせず、そのまま出勤してしまったことも、私には気になる出来事だった。彼らの行動は、事故当日の天王寺区のボウリング大会ととともに、マスメディアでも批判されたが、私にはボウリング大会よりも、こちらのほうが異常だと思われる。
運転士2人はその後、手記を書き、西日本旅客鉄道労働組合が18日に公表した。
その1人は「いかに現場を見て気が動転していたといえ、現場に残ることができなかった判断の甘さとこれでいいのかという思いが出勤の途中に何度もあり、時間がたつにつれ、日ごろから安全と人命を守ることを教えられていながらできなかったことは一人の人間としての愚かさ、悔しさ、後悔がますます強まり心苦しい毎日です」「今後も私は一生この重い荷物を背負っていかなければならない」などと書いている。
ふつうなら運転士2人は無我夢中で救助活動を行い、気がついたときには職場への出勤時間をとっくに過ぎていた、というふうに事態は進展し、後であわてて上司に連絡しても、上司は「無事でよかった。そのまま救助活動を続けてくれ」と言ったのではないだろうか。
現実には、彼ら2人はまっさきにたぶんケータイで職場に連絡、職場では出勤時間に間に合うことだけを確認した。ケータイですぐ連絡できることが、彼らの行動を狂わせたと言えるだろう。紹介した手記の前段に「結果的に当直の指示により出勤してしまいましたが」という断り書きがあるのが興味深い。
ここには、先に述べた23歳の運転士の場合とよく似た現代IT社会特有の事情が反映している。ケータイさえなければ、彼らとて現実の惨状のほうに心を奪われ、自然に救助活動に向かったのではないだろうか。ケータイがあったからこそ、彼らは即刻、現実世界から退出してしまったのである。
私たちはサイバー空間を通じて遠隔地と簡単にコミュニケーションできるようになったために、現実世界でまっとうに生きるチャンスを失っているとすれば、これはたいへん恐ろしい事態である。
投稿者: Naoaki Yano | 2005年05月22日 15:00
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全く同感です。
近隣の人が救助活動に駆けつけたり、他の助かった乗客が
救助活動していたのに、JR西日本はどうなっているのか
噴飯物です。ボーリングの他に、ゴルフもやっていたとか、
官僚体質そのままのような気がします。
小生が言うのですから本当に酷い。
又、別の報道では、被害者を語る者が続出していて、補償金を
要求しているとか、これも酷い。
日本人の悪い面がここでも出ているような気がします。
投稿者: 鳥海輝雄 | 2005年06月01日 08:06
鳥海輝雄さま
コメントありがとうございます。
当ブログ初のコメント、しかも賛同意見をいただき、嬉しく思います。
このブログが、これからの社会の生き方をみんなで考えていくページに育てばいいな、思っています。
投稿者: 矢野直明 | 2005年06月04日 11:17
自己コメントです。
このことをある小さな会合で話したら、1人が「運転士には自分の仕事、すなわち担当の列車を定時に運行するという役目があったわけで、そちらを優先するのも『職業倫理』ではないか。そういう確固たる意見があっていいと思うが、世間の風当たりの強さにすっかり恐縮した風情で、それを表明しにくくなっている現状が問題ではないのか」と言った。手記は組合が発表したもので、必ずしも運転士の真意だと思われない、とも。
たしかに、一人の人間としての生き方、職業人として立場など、個々の倫理はときに衝突するわけで、その時々にどういう決断をするか、それがその人の生き方でもあろう。言いたいのは、ケータイというツールが及ぼす影響、ともすると倫理的な生き方を希釈してしまう傾向について十分認識すべきだということである。
私はかねがね、「サイバーリテラシー」という表現を使って、これからの人生を快適で豊かなものにするためには、「サイバー空間」と「現実世界」が密接に交流する時代の新しい生き方を問い直さなければならないと主張してきた。これが「情報倫理」の構築であり、サイバー空間がすっぽりと地球を覆うことになった時代の、「伝統的な倫理の空白」を埋める作業だと私は思っている。
投稿者: 矢野直明 | 2005年06月10日 18:31
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