親と子のサイバーリテラシー<日本子ども学会シンポジウムから>
皆さん、こんにちは。今日は僕の考えているサイバーリテラシーという考え方についてお話しさせていただきます。
つい最近、1995年ぐらいまで、私たちは現実の中でだけ生きていたと言っていいと思いますが、インターネットが発達した現代は、その上に成立した新しい情報空間、「サイバースペース」と「現実世界(現実空間)」を行き来しながら生活しています。だから、このサイバースペースはどういう空間でどういう特徴をもっているのか、それは現実世界にどういう影響を与えるのかということをきちんと理解しないと、これからの社会を快適で豊かなものにしていくのは難しいと考えています。この能力が「サイバーリテラシー」です。
サイバーリテラシー研究所のホームページには、明治大学で毎年夏冬に行っているシンポジウムの記録や、朝日小学生新聞で連載していた「サイバー博士と考える―ケータイ質問箱」といった記事が載っています。<以下、そのホームページを参照しながら説明>。
「コンピュータリテラシー」は、コンピュータという道具を使うとどういうことができるのか、あるいはそれを扱うためにはどういう知識が必要なのかということを学ぶものです。「情報リテラシー」は最近、新聞などでも登場することが多くなりましたが、多くの情報が錯綜している現代にあっては、その情報をただ受け取るだけではなく、情報の善し悪しを主体的に判断して効果的に使わなければいけない、その能力のことです。これに対して「サイバーリテラシー」は、新しく登場したサイバースペースを正面からとらえることで、現代社会における私たちの生き方を考えるものと言えます。
サイバーリテラシーの第1のテーマは、新しい情報空間であるサイバースペースそのものの構造と特性を理解し、今後の変化を考えることです。第2は、現実世界がサイバースペースと交流することによって変容していく側面について考えることです。
なぜサイバーリテラシーが有効なのかと問われれば、大きく3つの理由があると思っています。
第1は、サイバースペースには現実世界が持っているような制約がない。時間的、空間的な制約がないということもそうだし、行動上の制約もない。これは非常に大きい特徴です。現実世界の持っているあいまいさや不徹底、物理的な障害、自然秩序といったものがサイバースペースにはないというデジタル情報の特質が、情報の徹底的な規制、コントロールをも可能にすると同時に災いの種ともなり、さまざまな問題を引き起こしているわけです。
第2は、サイバースペースは「忘れない」ということです。この会場での僕の話はメモしなければたいてい忘れられる。しかし、サイバースペースにいったん情報が蓄積されると、これはほとんど消えないと言っていい。記憶ということで考えると、現実世界のデフォルトは「忘れる」。サイバースペースのデフォルトは「忘れない」。現実世界では記憶することに努力を必要とするけれども、サイバースペースではそれを削除することにこそ努力を必要とするという、逆転した関係があります。
第3は、サイバースペースは「個」をあぶりだすということです。私たちはふだん地域だとか組織に組み込まれて生活しますが、サイバースペースを経由すると、既存のコンテクストから分離される。これは自由ということでもあるし、孤独ということでもあります。
だからこの3点をもとに、サイバーリテラシーということを考えていかなくちゃいけないと思っています。
これは日本人にとってきわめて大きな試練です。現代の秩序から解放された個人が、一方でサイバースペースの網に捕捉されながら、他方で自律的なネットワークを築き上げていくにはどうすればいいかは、まさに一人一人に課せられた大きな課題です。しかも、いまだに欧米的な「個」を確立できないと言われている私たち日本人にとって、それはより切実な問題になると予想されます。
さて、このような状況下で、いまの子どもたちはサイバースペースに溺れる危険性があるというのが今日のテーマですね。それは、こういうことです。
まず、これからの子どもたちは、いきなりサイバースペースと現実世界の双方を生きるようになります。私たち大人は、現実世界の中で、家族やまわりの人たちから生きるための知恵だとか、やっていいこと、悪いことを学んできたわけですね。ところが子どもたちは、そういう訓練を受ける前に、いきなりサイバースペースの住人になります。これは歴史的にかつてない状況と言えます。
もちろん、だからこそ子どもたちは、サイバースペースを利用したすばらしい生き方を考えつくことができるんだとも言えます。大人にはそういうセンスはないけれども、子どもだからこそできるという面を僕は必ずしも否定するわけじゃありません。
第2は、先にも言いましたように、サイバースペースは「個」の世界です。いままでなら、子どもは学校が終わるとランドセルを放り出して、「○○ちゃん、遊ぼ」とか言って、友だちの家に行く。母親から「いまは宿題しているからだめ」とか言われていたわけです。また家に1台しか電話がないころは、まず親が電話に出たから、親は子どもの行動を知ることができた。ところがケータイで子どもが直接に連絡とるようになると、親を経由しない。すなわち、「個」が前面に出てくるわけですね。
大事なのは3番目で、大人の目が届かないところで子どもだけの世界が広がっていることです。長崎県佐世保市の小学校の事件は、非常にショッキングでした。この事件で、サイバースペースが大人ばかりではなく子どもの世界をも大きく呑み込んでいることが明るみに出ました。
こういう事件が起こると必ずといっていいほど、テレビや雑誌、ゲームなど、さまざまなメディアが青少年に与える影響が問われ、それらのメディアを批判的に受容する能力としてのメディアリテラシーの必要性が強調されますが、僕が言いたいのは、現代社会で起きている事件の本質をとらえるためには、サイバースペースを正面から見据えることこそ不可欠だということです。別の言い方をすれば、今回の事件ほどサイバーリテラシーの必要性を痛感させられたものはない。子どもたちはサイバースペースの海で溺れつつあるように見えるからです。
たとえばアニメや本などには、必ず幼児向けとか何歳児向けとかという表示があって、親はそれを見て、子どもたちにメディアを与えてきました。ところが子どもにケータイを与える時に、親の多くはまったく無関心です。ケータイで何が見られるのかということすら知らずに与えている。なぜ子どもにケータイを持たせるのかと聞くと、「子どもにせがまれたから」。「塾に通っているので、ケータイを持たせておくと安心だ」と言う人もいます。
なかば親の都合で子どもにケータイを与えているわけですが、ケータイやインターネットの世界には悪意の人もいる、だからケータイは物騒な道具なんだという認識があれば、利用ルールをつくるとか、機能を制限するとかといったことが検討されて然るべきです。ところがほとんど無造作に与えている。これは非常に危険だということです。
これは「子どものサイバーリテラシー」の問題だけれども、親がまずそういうことについて認識しないといけないということでは、「子どもと親のサイバーリテラシー」でもあります。僕は「ケータイは現代版ハーメルンの笛吹き男の笛だ」と書いたことがありますが、そこの部分を読んで終わりにしましょう。
「これからの私たちは、自律的な生き方をせざるをえないのであり、だからこそ、子どもたちがサイバースペースの入口に立つとき、親と子のコミュニケーションがことさら重要になってくる。そのためには、まず、親が現代という時代のありようを理解しなければならない。それは親と子のサイバーリテラシーでもある。子どもたちはケータイで外の世界とつながっており、しかも親はそれを監視できない。子どもたちだけで別の世界がつくられ、そこに悪意の見知らぬ大人が介入する。こういった事態がこれからも進めば、子どもたちは親の知らないうちにサイバースペースの彼方にさまよい出ていくかもしれない。私は、ときどき、携帯は現代版ハーメルンの笛吹き男の笛ではないかと思うことがある」
<日本子ども学会第1回子ども学会議・「子どもとメディアの未来を考える」シンポジウム=2004.9.5=にパネリストとして参加したときの冒頭発言>
投稿者: Naoaki Yano | 2005年06月06日 13:43