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2005年09月15日

メディアとディスコミュニケーション

朝日新聞は8月21日付朝刊二面と翌22日付の三面で、新党結成をめぐって「亀井静香・田中康夫両氏が長野県内で会った」とする記事を掲載したが、その記事は長野総局員の虚偽メモに基づくものだった。なぜジャーナリズムの根幹を揺るがすような事件が起こったのか。けさの朝日新聞が「検証 虚偽メモ問題」として3ページにわたって報告している。

報告は詳細で、かつ真摯な態度に貫かれているが、要は「メールだけのやりとりに終わり、取材現場での言葉によるコミュニケーション不足が虚報につながった最大の原因だと思えます」(「検証を終えて」)に尽きる。

電子メール恐るべし。

この点について思いつくことを記しておきたい。

<1>電子メールの軽さ

検証記事によると、亀井・田中両氏が会ったとの情報を確かめてくれとの本社政治部から長野総局への連絡は18日午後、メールで行われ、総局長から転送された長野総局員は、とくに急ぎの用件ともたいしたニュースとも思わず、ルーティンの仕事を優先した。夜勤業務で忙しかった20日夜、政治部から連絡を受けた総局長に「例の件はどうだったか」と口頭で聞かれ、田中知事に直接確認していないのに、「知事は亀井氏に会ったと言っていました」とうその返答をする。「それをメモして政治部に送ってくれ」と言われ、「会ったとの裏はほとんど政治部でとれているのだろう」と軽く考え、10分くらいで田中知事との一問一答方式のメモをでっち上げた。それを政治部に送ると同時に総局長にコピーを送った。

政治部がこの情報に飛びつき、電話でメモ内容を使っていいかと総局長に問い合わせるが、記事の詳しい説明はせず、総局長もメモ内容のどこをどう使うかを確認しないままに了解した(総局長がメールでメモ内容を見たのは、了解を与えた後である)。翌日、勤務についた総局次長(デスク)にこの間の引継ぎは行われておらず、夕方、政治部からメモ使用の了解を再度求められたデスクは、メモの存在を知らないままに、すでに話はついているものと了解の旨返事し、記者にはこのことを連絡しなかった。原稿の大刷り(最終ゲラ)がファクスで総局に届いたのは午後9時半、総局員は驚くが「頭が真っ白」になって、もはや虚偽メモだと自白する勇気がなく、成り行きにまかせる。その結果、誤報記事が掲載された。

問題は電子メールの便利さの裏にある「軽さ」である。

このメモが紙に書かれ、総局員に手渡されたら、両者の間でメモ内容をめぐる何らかの会話が行われたのは間違いない。メールは直接政治部に送られ、総局長がコピーを見たのはだいぶ後のことで、その際の会話も「知事、意外としゃべってるじゃないか」という程度で終わっている。政治部もメモの核心部分を記事にするにあたって、直接担当者に電話するなり、担当者を上京させるなどはしていない。

総局の一線が忙しく、一つひとつの取材に十分なエネルギーをかけらない状態が恒常化しているのは、検証記事からもよく伺われるが、たとえば、このメモが紙で書かれてデスク机に鋲ででも留めてあれば、デスクはごく自然にこのメモに目を通しただろう。しかしメモは電子メールで送られており、当然、デスクの目に届くようにはなっていなかった。

総局員は送られてきたゲラを見て初めて、ことの重大さに気づく。ファクスで送られてきたコピーではあっても、やはりゲラには威力があったということである。電子メールと紙に印刷された大刷りとの相違。電子メールのもつ「危うさ」を感じざるを得ない。

<デジタル情報の危うさ>
 
朝日新聞の3ページに及ぶこの検証記事は、米紙ニューヨークタイムズが2年ほど前に掲載した同じような検証記事を思い出させる。実際には現場に行っていないのに、他紙の談話を盗用したり、他のカメラマンが撮った現場写真から推察したりして、臨場感あふれる記事を仕立て、あるいは単なる電話取材を直接インタビューと偽って出稿していた27歳の記者が解雇された事件で、同紙は2003年5月、4ページの特集記事で前年10月以降に執筆した同記者の記事36本で大量の捏造やデータ盗用などが見つかったとして謝罪した。

その少し前には、同じアメリカのロサンゼルスタイムズ紙で、1面に掲載されたイラク戦争の現場写真が合成であることがわかって、カメラマンがやはり解雇されている。ニューヨークタイムズの記事捏造の道具はケータイとノートパソコンであり、記者はケータイを使って、現場に急行中だとデスクに思わせる” アリバイ工作”もしていた。ロサンゼルスタイムズ紙の場合は、カメラマンが現場で簡単に写真を合成できる環境が、その種の安易な誤報を生んだといえる。

電子メールに限らず、デジタル情報の類まれな長所が、かえって情報のあいまいさを生み出していることをあらためて考えるべきだろう。

私が朝日新聞社でパソコン情報誌『ASAHIパソコン』の創刊準備をしていたころ、友人の一人が「お前は農薬の普及雑誌みたいなものを作るのか」と詰問してきたことがある。会社が記事のワープロ出稿を強力に推進していたころで、ワープロ出稿率を高めることが奨励され、支局長によっては支局員のワープロ習熟率を上げるのにやっきで、記者は外回りの取材をするよりも支局でワープロをいじるのに忙しかった。それを彼は怒り、農薬は農業を破壊したが、パソコンは記者活動を破壊するだろうと“予言”したわけだ。

要は、技術を賢く使う知恵が社会全体に求められているということだが、デジタル技術万能の世が見えないところでメディア産業のみならず、社会全般を”汚染”しているとすれば、「パソコンは農薬だ」と言った彼の直観は当たらずといえども遠からずと言えよう。

なお、雑誌『情報処理』に掲載したコラム、「情報化社会におけるディスコミュニケーション体系について」をスクラップ欄にアップしたので、興味のある方は参照していただければと思う。

投稿者: Naoaki Yano | 2005年09月15日 14:15

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» 第16号:「人」をスクリーニングすることの限界——朝日「メモ捏造」事件の背景 from 「まるぽ」にうす
 朝日新聞長野総局に所属するA記者が、実際にはない、長野での田中・亀井会談をでっ [続きを読む]

トラックバック時刻: 2005年09月15日 23:31

» メールは軽い? from 唐澤塾
朝日新聞の長野総局の記者が「新党結成をめぐって亀井静香・田中康夫両氏が長野県内で会った」とする記事を捏造した問題について、朝日新聞が「検証 虚偽メモ問題」という... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2005年09月17日 18:27

コメント

 朝日のこの記事、興味深く読みました。
 読んですぐ思ったのは、「電子メールが悪者か」というものでした。

 たしかにこの件では、うその取材メモを作った記者は、さして深い考えがあったようではないですね。ことの重大性がわかったら、あっさりほんとのことを言ったので、どこかで確認の作業をもう少しやっていれば、こんなことにはならなかったのだろうと思います。

 ただ、触れられているニューヨークタイムズのように、記者の側に「でっちあげてやろう」という意識があったら、やはり防ぐのはむずかしかったのではないでしょうか。そのへんのところは、実際に新聞社にいたわけではないので、もうひとつよくわかりませんが。

 電子メールに責任をとらせればすんでいるというのは、まだ救われる状況のような気もします。
 そうでなければ、記事の裏の裏をとる取材をしなければならないことに・・・

投稿者: 歌田明弘 | 2005年09月15日 15:54

歌田さん、コメントありがとうございます。

電子メールを悪者にして「おしまい」じゃ、問題の根本的な解決にならないんじゃないの、というのはお説の通りです。

長野総局から送られた「長野県内で会った」というメモを鵜呑みにして、「県内のどこで、どういう場所なのか。そこでメモ以外にどういう会話が行われたのか」を電話なり、直接本社に記者を上げるなどして追求しなかった政治部も変だし、結局、亀井氏から裏をとれないままに記事化しているのも不思議です。そういう事情がこの虚報メモを「生かして」しまったわけですね。

だからこの検証記事は、ジャーナリズムの足腰が弱まっている本質に食い込んでいないではないかという批判は、他にもいろんな人から聞きますし、僕も異論はないんですね。

ただ、冒頭で「電子メール恐るべし。この点について思いつくことを記しておきたい」と限定しているように、僕が「サイバーリテラシー」で執拗に主張しているのは、デジタル技術を対象化できずに、自ら意図せずに、それによりかかっていく危険性ということです。デジタル技術が従来の職業的スキルやモラルを、深いところで崩していきつつある現実が問題だと思い、そこに注目しているわけです。

 僕の主張は、ときに「技術(メディア)決定論」と見なされるわけですが、それに対する反論は、人間の肉体的機能を拡張する従来の道具と、人間の精神的機能を拡張するコンピュータとは、精神に与える影響の程度が違う。現実世界の技術はコントロールが比較的容易だが、サイバー空間は技術そのもので成り立っており、これをコントロールするのはきわめて難しい、ということです。その違いについて注意を喚起したいというのが僕の立場です。

検証記事に対する、その点の留保が足りなかったかもしれませんが、意のあるところをお汲み取りいただければと思います。


投稿者: Naoaki Yano | 2005年09月16日 12:24

【前】(矢野さん、長編ですいません。前・後2つに分けました)
サイバーリテラシーから外れるところもありますが、矢野さんが振った「虚偽報道問題」を、ちょっと違う視点から見てみたいと思います。
電子メールなどデジタル情報の「軽さ」や「危うさ」が問題だ、との指摘は同感です。それに朝日新聞の虚偽報道問題に関して、電子メールの軽さを“犯人”側に追いやっては、電子メールが気の毒ですよね。
電子メールは悪者でも善人でもありません。悪者だと思うなら付き合わなけりゃよろしい。

「デジタル・イリテラシー」のほうが“ホンボシ”に近いんじゃないでしょうか。
この方向は矢野さんが以前から研究されていて、「デジタル技術を対象化できずに、自ら意図せずに、それによりかかっていく危険性」「デジタル技術が従来の職業的スキルやモラルを、深いところで崩していきつつある現実が問題」だとして、歌田さんへの返事の中で触れています。

IT化がもたらしたデジタル情報の軽さ、危うさを、私もかつて足を置いた新聞社もじわじわと実感してきました。「報道とは足を使うことだ」というテーゼは崩れがちです。それが報道の物足りなさ、突っ込みの浅さを生んでいるという反省の声があります。用語法への過剰適応や表現の類型化なども懸念されています。デスクからは「インターネット検索を禁止したくなる」という愚痴も聞こえます。

そんな中で虚偽報道が起きた。15日付朝日「検証 虚偽メモ問題」記事は「メールだけのやりとりに終わり、取材現場での言葉によるコミュニケーション不足が虚報につながった最大の原因だと思えます」と総括しています。
真剣に調査をした雰囲気は伝わるけれど、どうも原因究明というより経緯整理のように見えます。結論もふわっとしていて、あいまい。“犯人”を捕らえるのは難しそうです。
再発防止のため、壁に標語でも張るんでしょうか。「メールするより直接話そう」「メールしたら電話で確認」などと。それとも“無口”な「N記者」が悪いんでしょうか。

歌田さんが指摘されていますが、米紙の例のように記者の側が意図すれば、うそ、でたらめ、でっち上げ、盗用、……などはなかなか防げるものではありません。デジタル化が垣根をますます低くしていき、誘惑の種はどんどん増えていくだけです。
完璧な防波堤など想像できません。性善説に立てば、悪意~悪戯心を起こさないようにする仕掛け――ジャーナリストとしてのモラルを鍛えるしかなさそうです。性悪説で行けば、記者管理を強化し「ヤったらクビ」という“脅し”が徹底されるかもしれません。
どのみち、以下は「意図しない」場合の話になります。

虚偽報道問題の“主犯”を推理する手がかりとして、2点提供したいと思います。1つはモニター廃止問題、2つ目はジャーナリズムの衰弱です。メディアとしての経営姿勢にも触れたいところですが、後者に押し込みました。

第1点は、朝日の新出稿システム(ATOMシステム)のオーバーランを停車位置に戻せば、という案。「虚偽メモ」をゲラにしにくくする方法です。
出稿原稿の“重さ”を保証する仕組みはモニター(=紙)の存在です。担当記者はゲラになる前に、デスクの判断を“自動出力された”モニターで確認します。
デスクのチェックを経て出稿された原稿は、モニターを手始めに紙ベースでの確認ルーチンに乗ります。関連モニターもデスク席で次々に出力されます。通常はさらに版ごとの小ゲラを経て、各版の大刷りになります。
このプロセスを流れるすべての紙に対して、関係者が寄ってたかってアラ探しをするのです。

特徴的なことは、記者に対してこの仕組みが“紙によって押しつけられる”ことです。メシを食いながら、他の仕事をしながら……待機していれば、確認すべき紙が手許に届いたのです。
訂正個所はファクスで送り、電話で再確認する。連絡が遅ければしつこく催促する――が鉄則です。矢野さんご指摘のように、印刷された紙には威力があります。

ところが検証記事の「キーワード」にあるように、今春からモニター出力は廃止されました。経営上の“成果”なのでしょう。
出稿後、待機している記者はPCから認証操作を経て該当画面を呼び出し、“自分で”プリントアウトする。そんな流れに変わったのです。待っていても、以前のようにプリンターはモニターを吐き出てくれません。“紙の押しつけ”から“電子情報の取り出し”へと作業内容が転換しています。
ここのタイミングをのがすと、モニターを確認する機会を逸します。紙から遠ざかったデジタル管理の“危うさ”が現実になったのが、今回のケースともいえます。歌田さんは「確認の作業をもう少しやっていれば」と指摘されていますが、従来はこの段階で記事の基本線に障る誤りなどはかなり食い止められました。

モニターを見られなかったとき、次に確認するチャンスはゲラになります。アンカーマンが仕上げる記事の場合、データ原稿に構造を持たせてモザイク状に組み立てられることが多い。問題の記事もそうでした。
モニターを見逃したまま、データ原稿に大きく寄りかかったアンカー記事がゲラで届いたとき、そのデータが誤って使われていたり、歪められていたら、その記事全体が成立しないことにもなりかねません。デスクは万能ではないし、誤解することもあります。
そのとき担当記者は、その記事を潰す義務があります。勇気の必要な義務ですが、きわめて重要な義務です。それが果たせないなら、記者を続ける資格などありません。
今回のように補強的なデータ利用であっても、もちろん同じことです。しかし担当のN記者は「頭の中が真っ白になり」それができなかった。

ここで考えてみてください。モニターさえ見ていれば、記者はさほど追い込まれなくて済んだはずです。まだゲラになっていない早い段階だから、傷は浅い。引き返す心理的な負担は、ゲラになってからよりずっと軽い。モニターを手に、あわてて電話確認する記者を見かけるものです。関連モニターを次々に見ていく中で、記事の全体像、重要度、企画への意気込みなども把握できたでしょう。
ゲラになる前に見ることが重要なのです。

今回はここが飛ばされてしまった。記者に「ゲラで見ればいいや」という意識があったのかもしれない。ここに犯人の1人がいます。
“無口”な同記者や長野総局だけの責任ではありません。出稿元の“無口”な政治部は、同記者のメモを取り込んで作成したモニターを総局に送っていないからです。こうした政治部の独善的な記事作成スタイルには問題があり、改める必要があります。犯人の1人です。
しかし作業の構造からいえば、いままで見てきたように、モニター自動出力の廃止によるダメージが大きい。これは重要な犯人です。

もうお分かりのように効果的な再発防止策としては、モニターの自動出力を復活させ、モニター確認を徹底すればよろしい。自動出力が難しいなら、現行のモニター取り出し作業を飛ばせないような仕掛けが必要になります。モニターを見るルーチンが確保されることが重要なのです。
そうすることで、仮にモニターでの修正が時間的に間に合わなくても、ゲラでの赤字を準備しておける利点もあります。「言葉によるコミュニケーション不足」のまま原稿が書かれた場合も、早い段階で問題点が発見でき、手当てがしやすいでしょう。分秒を争う中、早期対策が取れる意味は大きい。だれもゲラで火だるまにはなりたくありません。
自動出力を廃止する前は、このやり方で“大過なく”乗り切ってきたのです。

検証記事を見る限り、モニター出力問題にはあまり触れたくないような印象を受けます。大きな費用を注ぎ込んだ経営判断が背景にあるのでしょうか。インフラの見直しは迂回されるかもしれません。このままでは虚偽報道問題は「言葉によるコミュニケーション不足」への対策だとして、記者の管理問題へとすり替えられる可能性があります。

また検証記事のタイトルが「虚偽メモ問題」と立てられているのはおかしい。「虚偽報道問題」とすべきです。問題を小さく限定し、報道姿勢そのものに問題が繋がるのを防ぐ狙いがあるのでしょうか。(以下【後】へ)

投稿者: 角田暢夫 | 2005年09月19日 23:04

【後】
第2点は、まさにその報道姿勢が抱える問題。「虚偽メモ」を作られにくくする遠大なテーマです。
こちらのほうが本質的だし、根が深い。この問題こそ、今回の事件を引き起こした“真犯人”かもしれません。朝日の問題でもあるけれど、各メディアを含むジャーナリズム全体のあり方が問われているのだと思います。
「ジャーナリズムの足腰が弱まっている本質に食い込んでいないではないかという批判」には矢野さんも、歌田さんへの返事で異論がないといっていますね。ただこのブログは、ジャーナリズム論を展開する場ではないと思うので、一例として朝日の総選挙報道を概観するだけに留めます。

今年に入ってから朝日は、NHKと政治家の癒着をめぐる報道の後始末、週刊朝日の武富士編集協力費問題、そして今回の虚偽報道問題と、やっかいな問題を抱えました。いちいち復習しませんが、これらは違うテーマのように見えます。でも共通して浮かんでくるのは、報道の衰弱ではないでしょうか。
立脚点が霞んでいる、姿勢がブレやすい、根気が続かない、功利的・小器用になっている――そんな印象を受けます。つまり「ジャーナリズム」という原点の据え方が緩んでいる。報道は何をしなくてはならないのか、何をしてはいけないのか。
衰弱や緩みを自覚しているんでしょう、「検証」記事をときどき見かけます。歓迎すべき傾向だけど、深みのない“言い訳”にはうんざりです。

緩みが続いていることは、今度の総選挙報道を通じて透けています。16日付の「検証 総選挙報道」は、各紙の情勢報道が自民の圧勝ぶりを予想しきれなかった各紙、“識者のコメント”を通じて小泉流のメディア露出戦術が他を圧倒した様子などを伝えている。このコメントは相変わらず総花式にバランス配分され、読者に好きなのを選べとばかりに放り投げられています。総選挙報道の検証もちゃんとやってますよ、という言い訳にしか見えません。
なぜなら「検証」と振りかぶったなら、まず自らの報道の軸を明らかにするのが筋だと思うからです。その軸に対して、実際の報道がどれほど偏倚したかを測定する。それがジャーナリズムの責任ではありませんか。それをやっていないように思います。客観報道なる神学の世界にお籠もりしているのだろうか。

ジャーナリズムで大切なのは、報道機関が軸を持つことだと考えます。例を挙げます。解散翌々日の社説(8月10日付)は「(郵政)民営化の灯を消すな」主張しています。ならば総選挙報道は、“争点騒動”の中でこの主張が軸とならなければおかしい。この線に沿って、「小泉流郵政」の内容の希薄さ、「民主流郵政」のブレがもっと追及されなければならなかった。
ところが、「官から民へ」「公務員の数減らしのどこが悪いのか」としか小泉首相は言わない/民主党は言い分がズレていったが、あまり郵政には触れていない――そんなたぐいのニュースが連日流された。解説的な記事にしても「年金などもっと他の分野もある」論が主体ではなかったでしょうか。正当な指摘だけれど、軸であるべき郵政民営化やるべしという主張と繋がらない。
そこからは報道側の自立した軸が浮かんできません。これでは読者は報道を信頼できず、投票先への手がかりとして確信を持てません。

「郵政」について、なぜ首相はスローガン以上のことを言わないのか。なぜ民主党はブレたのか。これらは「郵政」に関心を持つ読者が当然抱く疑問です。ここへ報道が答えていない。それは実のところ、選挙報道の軸が息切れしていたからではないだろうか。
そもそも軸がなかったのかもしれない。それとも関連ニュースを落ちなく載せ続ければいい、というあたりで構えていたのだろうか。あるいは情勢調査や世論調査をこってり盛り込めればよかったのだろうか。一番マズイのは軸がなく、主体性を欠いた情緒的報道です。小泉劇場はすごいが、それに比べて岡田民主代表は愛嬌がない、といったたぐい。
クラゲの生き方と報道の在り方は両立しません。

解散権を行使した首相は冒頭、総選挙の争点は「郵政民営化」だと宣言しました。ここから“小泉さんが言うんだから”争点は郵政だ、というムードが醸成されていった気配があります。情勢・世論調査もそれを裏付けていました。こんな流れに対して、報道側からの警鐘が欲しかった。憲法の精神からいって、争点を決めるのは有権者なのです。選挙というのは、政党がやりたい放題をする広場ではありません。報道による監視の目が利いていなかった。
各党のマニフェストにしても、新聞は過去と現在の内容を比較検証し、各党の実績を評価しなければならなかった。現在のマニフェストを比較するのは有意義だけど、そこに留まったのはジャーナリズムの衰えです。

メディアは先んじて時代をとらえ、警鐘を鳴らして世論を喚起する。特権と共にそんな義務を負っています。今度の総選挙は特徴的な問題点をたくさん抱えていた。時代がカーブを切ろうとしている証拠です。それが十分に報道されなかったという現実が目の前にあります。時代の転換点となる、ここ一番の総選挙報道で衰えを見せました。
「TV巻き込んだ圧勝劇」という主見出しを立てた「検証 総選挙報道」は、役割を果たせなかった新聞の悲鳴のように聞こえます。

政権党の内部分裂と民主主義の崩壊、国家財政の破綻とその隠蔽、改憲の是非、言論・表現の自由の危機、教育の右傾化、米国の戦争傾斜への追随、アジア外交の失敗、……。重大なテーマです。「小泉劇場」と化したこの総選挙では、報道側からこれらを争点として提起する必要がありました。それができなかった。各紙、他メディアも大同小異です。衰えの根は深い。

話がいささか遠くへ行きすぎました。「虚偽報道問題」は、こうした衰弱の下に浮き出してきたひび割れの1つといえないでしょうか。ひびはジャーナリズムの中に深く広がっています。いつでも・どこでも表面に浮き出す可能性があります。今後も原因をN記者個人に戻してはいけません。
ジャーナリズムはとらえどころのない存在です。その“原点”も、お店の棚に陳列されてはいません。手に入れるには、この時代に深く足を下ろしつつ、過去の報道を深刻に自省するしか道はありません。
今回の問題をきっかけに「信頼される報道のために」委員会が朝日社内に設置されたと伝えられています。「解体的出直し」(吉田慎一編集担当)を見守りたいと思います。(終)

投稿者: 角田暢夫 | 2005年09月19日 23:14

角田さん、堂々たるコメントをありがとうございました。

冒頭、「サイバーリテラシーから外れるところもありますが」と断りがありますが、貴兄が取り上げた具体的な現状改革論議こそ、サイバーリテラシーの各論だと思っています。

歌田さんや角田さんのコメント、あるいは唐澤さんのトラックバックを通して「サイバーリテラシー」が抱えようとしている課題が、より広く、そしてより深く追求されていくようです(僕としては「話がいささか遠くへ行きすぎました」のではなく、サイバーリテラシーの掌、まさにその中心にいるのだと言いたいところですね(^o^))。その点についてまずお礼申し上げます。

たしかな視点に裏付けられた具体的な問題摘出に敬意を表します。「検証記事のタイトルが『虚偽メモ問題』と立てられているのはおかしい。『虚偽報道問題』とすべきです。問題を小さく限定し、報道姿勢そのものに問題が繋がるのを防ぐ狙いがあるのでしょうか」というご指摘は鋭い。

とりあえずここでは、「紙のモニターの重要性」についてひと言。

僕は「サイバーリテラシー3原則」で「サイバー空間には制約がない」ことを第一点に上げているわけですが(サイバーリテラシー研究所のホームページトップ「サイバーリテラシー3原則」をご参照ください)、この制約のなさ、換言すれば、これまでの制約をぶち破ったデジタル情報の便利さが、かえって私たちが長年培ってきた従来のルールや知恵を一気に無効にしてしまうのが危ういわけです。

コラム『DTP編集が伝統的な本づくりを破壊していく』(「スクラップ」にアップしました)で「本づくりの『中心』からゲラが消えた」ための混乱についてふれましたが、紙のメディアは、電子メディアにない「制約」を持っているからこそ、逆に強いわけです。

電子メールの陥穽ということでは、電子メールに対するリテラシーを高めると同時に、他のメディアの長所を再認識し、それを現実に生かす知恵が必要だと思います。個人情報漏洩対策として、企業では最高機密は紙で残すようにもなっているようですね。朝日新聞社は紙のモニターを復活すべきだとの提言は説得力があると思います。

コメント後半でふれられているジャーナリズムのあり方、とくに今回の選挙報道におけるジャーナリズム精神の衰退については、納得させられることが多かったことを付言しておきます。

投稿者: 矢野 | 2005年09月20日 18:54

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投稿者: Flash Website Builder | 2011年08月20日 18:28

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