「メディアとコミュニケーション」再考
拙稿「メディアとコミュニケーション」に関連して、唐澤豊さんがトラックバックで、朝日新聞の虚報事件の背景は、電子メールなどのデジタル技術に陥穽があるというよりも、むしろデジタル技術を賢明に使いこなしていないこと、そのリテラシー欠如にこそあるのではないか、と指摘しておられる。
以前、「運転士はなぜ現場を離れたか」と同趣旨(ケータイという道具がともすれば倫理的な生き方を希釈してしまう傾向)の発言をしたとき、聴衆の1人が「運転手は、ケータイで宿直現場に連絡して、そそくさと現場を立ち去らずに、そのケータイを使って現場の惨状を知らせることもできたのではないか」という意見を紹介してくれたことがある。要は、技術は使い方次第、そのリテラシー教育を徹底すべきだというのも、ごもっともである。
だからこそ私は、そのデジタル技術の特性を理解し、それを賢く使う知恵が大切であると主張しているのだが、歌田明弘氏のコメントに対しても言及したように、そういった認識(「サイバーリテラシー」)を十分持たないままに、新しいツールに翻弄され、長年の間、現実世界で培ってきた職業技能や職業倫理をどんどん捨て去っているのがむしろ現状ではないだろうか。
「情報社会のディスコミュニケーション」一つとっても、新聞社(メディア)だけではなく、多くの企業活動にも、激動する昨今の政治状況にも、いや個人一人ひとりの行動にも顕著に見られる傾向である。それには多くの要因があるとしても、新たな情報環境、「サイバー空間」が及ぼす影響もまた大きいと私は考え、いささかその側面を強調しがちなのかもしれない。
投稿者: Naoaki Yano | 2005年09月18日 11:48