« DTP編集が伝統的な本づくりを破壊していく(『情報処理』2004/9) | メイン | 北沢栄『静かな暴走 独立行政法人』(日本評論社) »

2005年09月23日

電子メールは、たとえて言えば用水路

朝日新聞の「虚偽報道」事件について正面から論じるつもりはないが、それにしても考えさせられることが多い。

朝日新聞は、今日の紙面(9/23付朝刊)で同社紙面審議会の「選挙報道 新聞の役割は」を掲載し、そこでも「虚偽メモ」問題を論じている。以前の投稿『メディアとコミュニケーション』とダブル面もあるが、あらためて電子メールについて考えてみたい。

コミュニケーションの道具としての電子メールは、たとえれば用水路である。山から海へ、田畑から河へ、効率的に水を流すためには便利だが、かつての小川がもっていた他の生物との共存、周辺環境との調和、のどかな流れは失われる。

たとえば長野総局にファクスで紙の行政(取材お願い)が送られてきたら、総局長はそれを直接、総局員に「手渡す」だろう。そこで政治部の意向や上司としての指示がごく自然に伝えられる。「そうすべきだ」とか「ルールでそう定められている」とかいうことではなく、ごく自然なコミュニケーションとしてそうなるはずだ。

総局員が書いたメモも、それが紙だったら、総局長に手渡されるとき、両者の間でもう少し突っ込んだ議論があったと考えられる。「田中知事、意外としゃべってるじゃないか」、「ええ、まあ」、「軽井沢のどこで会ったの? ほかに立ち会った人はだれ?」、「??」。総局員の態度や応答のどこかに歯切れの悪さが出て、ベテラン記者たる総局長がメモでっち上げを見抜くのは、たぶん、いとも簡単だっただろう。

あるいは政治部記者が記事をまとめるにあたって、総局員からもっと掘り下げたデータをほしいと、電話で彼と話して「ちょっと本社に上がってくれ」と上京させれば、化けの皮がはがれるのは、これまた火を見るよりも明らかだったと思われる。

実際、かつての取材活動はそんなふうに行われていた。総局(かつての支局)は日々のささいな、どちらかというと無駄に見えるような、ふれあいの中で新米記者を育てたのである。また総局員は、ときに憧れである本社に「上がる」機会を得て、そこで取材の仕方や記事の書き方を教わった。終われば、「よく来た」と先輩から酒をふるまわれ、その日は都内のホテルでぐっすり眠って、翌朝、自分も一役かった記事が大きく掲載された朝刊を何度も何度も読み、カバンに大事にしまって、はればれと総局に帰っていった。『鉄道員』が日々の辛い労働や乗客との交流を通じて職業人の誇りを身につけていったように、若い記者たちはこうして、記者としての喜びや誇り、技能や責任を学んでいった。

パソコンや電子メールの便利さは大いに活用すべきだというのが、『ASAHIパソコン』創刊以来、私が取り続けている基本スタンスである。だから便利な道具を使うリテラシーを身につけるのは重要なことだ。

しかしそのリテラシーには、道具を上手に使いこなすだけではなく、その性格を見抜いて、賢く使う知恵が含まれる。だから当然、作業のすべてを電子化すればいいということではない。紙の長所を見直すことも重要だろうし、紙から電子へ移るときに注意すべきことがらを把握しておくことも大切だ。何度も言うようだが、それらの道具が現実世界の制約をぶち破るとき、その制約ゆえに築き上げられていた習慣やルール、知恵もまた失われがちである。

何もかもを電子メールで代用しようとするのは、コンクリート製用水路をどんどん作って、雨水を一気に海に流してしまうのに似ている。かつて小ブナが生息し、雑草が生い茂り、周辺をトンボが舞い、豊かな自然が息づいていた小川が消えたように、いまジャーナリズムの根幹が危機に瀕していると言えるだろう。

何ごとも破壊するのは簡単だが、23日付紙面で委員の一人もふれているように、いったん破壊されたものを取り返すのには時間がかかる。 

朝日新聞社ではここ数年、小川をつぶし、用水路をつくるような作業が強力に進められてきたという。私の在社当時からすでにそうだったが、「普通の会社」並みに無駄をはぶきたいという姿勢が強く、それがジャーナリズムをいかに窒息させるかに無頓着だった。厳しい経営環境という背景があるにしろ、たらいの水といっしょに赤子も流してしまっては元も子もない。同社がIT技術や、それを使った新しいメディア構築に冷淡だったことが、かえって、同業他社以上にそれらのメディアに翻弄されやすい体質をつくっているようなのも皮肉である。

もちろん、これは朝日新聞だけの問題ではない。監査法人が粉飾決算を指導するようなことは、かつてはなかったと言い切れないだろうが、あるときは不正への歯止めをかけ、あるときはほどほどのところでおさめていた(?)もろもろの制約が、デジタル情報化の過程で「消えた」ために、とかく暴走しがちであるという、IT社会の現状が危ういのである。

投稿者: Naoaki Yano | 2005年09月23日 11:46

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.cyber-literacy.com/scripts/mt/mt-tb.cgi/46

コメント

コメントしてください




保存しますか?


Copyright © Cyber Literacy Lab.