牧野二郎『個人情報保護はこう変わる』(岩波書店)
弁護士として個人情報保護法施行にともなう混乱ぶりをつぶさに見てきた著者が、「個人情報保護」という現代IT社会が背負う難題に正面から取り組んだ書。個人情報保護法を解説した実用書、その対策本は巷にあふれているが、この法がもつ本質を一般人向けに明解、かつ具体的に解説した意義は大きい。
情報はデジタル化したとたん漏れやすくなる。従来は紙などのメディアに固定され、おのずから流通も制限されたが、デジタル化によって情報は単独で身軽に流通してしまう。それがデジタル化のメリットでもあり、やっかいさでもある。
だからデジタル個人情報は、ほうっておけばざるから水が漏れるように流れ出す。しかもそれらの断片情報は、検索され、一箇所に集められ、本人の知らぬ間にさまざまに利用される。だからこその個人情報保護であり、個人情報保護法の制定だったが、法施行後も漏洩は止まらず、にもかかわらずと言うべきか、だからというべきか、小学校の連絡網をつくらない、母校卒業生の就職進路も在校生に教えないといった法への過剰反応も生じている。
情報のデジタル化以前に成立した著作権法は、デジタル化にあわせるためのつぎはぎ細工で混乱しているわけだが、新しい個人情報保護法がかくも混乱しているのはなぜだろうか。
著者の言い分を少し乱暴にまとめると、以下のようになる。
法はおおむね国民の合意をもとに成立する。これを「コンセンサス法」と呼ぶと、個人情報保護法は、来るべきIT社会はいかにあるべきかを決める「デザイン法」として成立した。しかしこれからのIT社会のありようは、だれにどのようなメリットがあるのか、どのように設計すればいいのか、失敗した場合はだれが責任をとるのか、ということがよくわからない。
だからこそ国民全体の議論が不可欠なのだが、この国においては、それを奇禍として、官僚が自分たちの都合のいいように法を作り上げていく。立法府としての国会は十分な議論もせず、官僚主導のままに法を成立させ、問題の所在を示すべきメディアも、(本質を理解できないために)十分な情報を提供しない。かくして、社会の基本部分はどんどん「ブラックボックス」化して、いよいよ一般人にはわからなくなる。だからこその「個人情報保護狂想曲」である。
発言を断片的にいくつか引用しよう。「この法律の特徴は、まず何よりも『なにをしたらいいのか。何をしてはいけないのか』が一見示されているようでいて、実は何も示されていない、ということです」、「官僚がデザインする国家のあり方、組織、行政システムが提案されているのです」、「立法府が、規範の確立を行政官僚にゆだね、広範囲な白紙委任をしてしまったということなのです。後は、行政の裁量にしたがって、リードしていく、行政指導に従えといわんばかりの体制をとったともいえるのです」、「つまりIT技術の高度化と、行政の高度化、専門化によって、あらゆる場面に、人が対応できない、コントロールを失った危険な暗闇=ブラックボックスが拡大してきているのです」。
以上の枠組みのもとに、それではどうすればいいのか、という具体的、実践的な処方箋が書かれている。たとえば、「人の監視」と「業務の点検」を峻別する必要、個人に責任を転嫁しがちな組織への牽制策、責任も含めた下請企業に対する報酬の設定方法、生体認証で本人が拒否される危険への警鐘、IT施策にも「インフォームドコンセント」や「セカンドオピニオン」を導入せよとの提言、などなど。
私としては、「サイバーリテラシー」各論としてたいへん興味深かったが、とくに興味を引いたのが、「性善説」でも「性悪説」でもない、「性弱説」(人間は本来過ちをおかしがちな弱い存在である)という考えである。
先にふれたように(「等身大の精神」が危機に瀕している!?)、単なるコンピュータ入力ミスであっという間に400億円の損害を与えた社員の責任を、損害賠償のかたちで問うことはすでに不可能である。そういうケアレスミスを犯さないためのシステム構築こそが必要と言えよう。それを個人の倫理、個人の責任に帰そうとする考えに対抗して、著者は「性弱説」を提案しているのだろう。人間は本来弱い存在だということ自体に異論はないが、現代IT社会の問題は、人間の本質を弱いと捉えるよりも、デジタル技術が人間をそこに追い込むと考えたほうが適切だというのが私の見解である(「サイバーリテラシー3原則」参照)。
もっとも、「情報事故を、個人の倫理や個人の注意力に解消するのではなく、発生原因、発生のメカニズムを科学的に分析して、合理的な再発防止策を立てることが経営責任」だという著者の見解に異論はない。
投稿者: Naoaki Yano | 2005年12月30日 08:07