梅田望夫『ウェブ進化論』(ちくま新書)
インターネットの新しい展開を平易に解説した評判の書である。「サイバーリテラシー」の観点からもたいへん興味深かった。遅蒔きながら、少し長くもなるが、いくつかの感想を書きつけておこう。
著者は、ネット世界をリアル世界のアナロジーで考えるのは間違いで、それを「丸ごと」理解すべきだと言っている。まさに「我が意を得たり」の感が深い。これはサイバーリテラシー第一の課題(「サイバー空間」は「現実世界」とまるで違う原理で成り立っており、まずその特徴を理解しなくてはいけない)に対応している。
<新たな局面を迎えたサイバー空間>
本書のテーマは、サイバー空間が新たな局面を迎えているということである。いわゆる新潮流「Web2.0」で、著者によれば、これまで現実世界(「こちら側」)にあったインターネットの駆動装置がサイバー空間(「あちら側」)に引越ししつつある。パソコンのアプリケーション・ソフトからネットワークそのものへ。マイクロソフトからグーグルへ(因みに著者は、Web2.0の本質を「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢」ときわめてわかりやすく、かつシャープに説明している)。
しかしこれはインターネットが当初からもっていた機能そのもので、何も新しい発見ではない。もともと撒かれていた種子がようやく芽吹きつつある状況とも言えよう(グーテンベルグの活版印刷術が発明されてから、持ち運びに便利な本というメディアが開発されるまでには百年ほどの年数がかかっている。かつて私は「だれもがあっと驚くようなホームページのスタイルを考え出した者がメディアの覇者になる」と書いたけれど、ウエブはなお発展途上にある)。
いくつか例を上げてみよう。まず自分のことだが、2002年11月刊行の『インターネット術語集Ⅱ』でこう書いた(「ウエブサービス」の項)。
二〇〇一年十一月に発売された新しい基本ソフト(OS)、ウィンドウズXPも、ドットネット戦略も、OSとアプリケーション中心だったパソコンの世界を、インターネット上で動く各種サービスの世界へと大きく転換しようとする試みである。別の言い方をすれば、いままでのIT企業は、OSだとかアプリケーソンソフトを充実させることに意を用いてきたが、これからのパソコンは、インターネットという大海に無数に浮かぶ島々を巡る足回り程度の意味しかなく、彼らの関心はむしろパソコンの外側に向けられている。
それは、大小とりまぜての島々で展開される多彩なコンテンツを楽しむための観光ガイドであり、島を訪れるための認証など社会システムの整備である。さらには島々をより魅力的なものにするためのツールの提供、コンテンツの開発である。かつての島づくり、都市開発ゲームと同じようなことを、「現実の」サイバースペース上に実現させようという野心的な構想といえるだろう。彼らは、サイバースペースのデベロッパーをめざしているのである。
また2002年秋に対談した粟飯原理咲さんは「私がこれからやりたいのは、情報編集の仕組みを提供するようなことです。雑誌の場合は編集者が仕組みも中身も作っていきますが、ネットでは編集の仕組みを用意して、中身は投稿者に委ねるようなことが自由自在にできる。データベースにランキングなり、新着なり、仕組みを用意して、あとは情報を入れていってくださいと。それがすごくおもしろいと思っているんです」と発言、2004年夏の明治大学シンポジウムでは「インターネットのおもしろいところは、自分で情報を出すんじゃなくて、仕組みを用意することで、そこに情報が集まってくる楽しさだと思うんですね。よせがきコムって、寄せ書きをする仕組みはあるんですが、メディア的には何の情報もない。そこに結婚寄せ書きとか、お悔やみ寄せ書きとかができあがった瞬間に、メディアになっていくんですね。箱を用意して、その箱にみんなに情報を入れてもらって、みんなで豊かになっていこうよという発想なんです。それがすごくインターネットらしいなと思います」とも述べている。
これなどまさにWeb2.0的ではないだろうか。日米の差は、アイデアはほとんど変わらないが、そのアイデアを一気に実装してしまう技術力、そこに人と金がどっと集まり急速な事業展開を可能にする求心力、さらにはアマゾン・コムの創業者、ジェフ・ベゾスのように、赤字続きでもへこたれずに初志を貫徹するエネルギーだろう。
著者はシリコンバレーでアメリカの熱気を目の当たりにして感激、それを日本に伝えたいとこの本を書いた。「ネット社会という巨大な混沌に真正面から対峙し、そこをフロンティアと見定めて新しい秩序を作り出そうという米国の試み」、「米国が圧倒的に進んでいるのは、インターネットが持つ『不特定多数無限大に向けての開放性』を大前提に、その『善』の部分や『清』の部分を自動抽出するにはどうすればいいのかという視点で、理論研究や技術開発や新事業創造が実に活発に行われているところ」という記述も見える。
この本やWeb2.0に対して、日本の「不特定少数」の人びとが、紹介されるアメリカの動向を眺めながら、「今度はWeb2.0だ。バスに乗り遅れるな」とはやし立てるのを見ると、いささか鼻白む思いがする。本書から学ぶべきことは、アメリカのエネルギーはもちろんだが、それより自分たちの回りにある先駆的な活動に気づき、それらを支援することではないだろうか。そうでなければ、彼我の差はいつまでたっても縮まらないだろう。
<横溢するアメリカ的楽観主義>
本書には、アメリカ的楽観主義が横溢している(あえてそれを伝えたいというのがねらいでもあるようだ)。それはネットの新しい参加者、「不特定多数無限大」への「信頼」であり、グーグルなどが開発する技術への「信仰」である。
サイバーリテラシー第二の課題は、「サイバー空間と交流することで現実世界がどう変質するか」を考察し、真に豊かで快適なIT社会を実現することである。いま「ネット社会」で何が起こっているかを紹介するのが本書の意図だと承知のうえで、この点に関する私見を述べておきたい。
彼と私の立場の差は、彼が掲げる<ネット世界の三大法則>と<サイバーリテラシー三原則>の違いによく現われている。
著者の掲げる「ネット社会の三大原則」は、
①神の視点からの世界理解
②ネット上に作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏
③限りなく無限大×限りなくゼロ=something、あるいは、消えて失われていったはずの価値の集積。
である。彼は「これら三大法則は、ネット世界でのみ成立」し、「ニュートン力学の世界から見た量子力学の世界と同様に、リアル世界からネット世界を見れば、それは『不可思議』『奇妙』『ミステリー』以外の何ものでもなく、その異質性や不思議さをそのまま飲み込んで理解するよりほかない。『これまで見たことのある何ものにも似ていない』ネット世界の性質のエッセンスが、ここで述べた三大法則に集約されている」と述べている。関心の中心はあくまでネット社会である。
一方、「サイバーリテラシー三原則」は以下の通りである。
①サイバー空間には制約がない
②サイバー空間は忘れない
③サイバー空間は「個」をあぶりだす
私の関心は、サイバー空間が現実世界に与える影響である。グーグルなどが牽引するかたちで進んでいる新しいサイバー空間の状況が現実世界をどう変えていくかにこそ焦点を当てたい。その態度の差は、彼が技術者、経営コンサルタントで、私がジャーナリズムに軸足を置いていることとも関係があるだろう。
これからのIT社会を考えるとき、技術の新潮流ばかりが注目されるのはやはりバランスを欠く。「そういうアプローチ(ネット社会で起こっていることを現実世界のアナロジーで見ること)が導き出す結論は、ネット世界の可能性の過小評価と、若い世代に対するやや悲観的でシニカルな視線である場合が多くなる。そのアプローチを改めてほしい」と、将来に悲観的になるのはネット社会を見る目がないからだ、というふうに捉えられるのは困る(もちろん本人はそう言っていないけれど)。
ウェブ進化をアナロジーによってではなく丸ごと理解しても、やはり彼のように楽観的にはなれないし、むしろより大きな問題が提起されているように思われる。ここでは「不特定多数無限大への信頼」とネットの「自動秩序形成」についてのみ私見を述べる。
<「不特定多数無限大への信頼」と「自動秩序形成」>
ネットの「不特定多数無限大の参加とそれへの信頼」の例証としてインターネット上の百科事典、ウィキペディアなどの試みがよく取り上げられる。「3人寄れば文殊の知恵」の拡大版的な意味はわからないわけではないが、「そこそこ正しい知識の集大成」だけじゃ、どうにもならないとも思われる。そもそもそのような信頼が日本で育つのか。いや、どうして育てることが出来るのか。これは「サイバーリテラシーと情報倫理」の問題であり、これからみんなで育てていかなくてはいけないと私は思っているのだが、彼は「確信したことは、日本の若い世代には、全く新しいタイプの日本人が生まれつつあるということであった。社会全体で見れば二極分化を起こしていることは否定できないけれど、二極化した上側のスピリッツと潜在能力は、私たちの世代を大きく凌駕していることがよくわかった」と、これもきわめて楽観的である。
もう一つ、「不特定多数無限大」は、現状では日本においてはもとより、世界においても、アメリカにおいてすら、なお「少数」でしかなく、IT社会にはその外に圧倒的「多数」が残されていることを忘れてはならない。
インターネットそのものに自動秩序を形成する力があるという点に関しては(これは「不特定多数無限大への信頼」を担保する技術と考えられている)、オープンソースの隆盛など「ネットの創発」として期待したい面があるのは事実だが、これも楽観ばかりはできないように思われる。「数百万、数千万という表現者の母集団から、リアルタイムに、あるいは個の嗜好にあわせて、自動的に『玉』がより分けられて、必要なところに届けられるようになる世界」がほんとうにやってくるだろうか。著者はパーソナライゼーションやソーシャル・ネットワーキングをその一里塚と見ているようだし、ある本がベストセラーになったために刊行時ほとんど売れなかった昔の本が、コンピュータに自動推薦されて「ロングテール(たとえば、ベストセラーの背景に、恐竜の尻尾のように長く、多数存在する、売れない本の列)」から引き出された、といった興味深い話も紹介されているが、一方で技術のもたらすひずみもまた大きいし、技術はときに暴走もする。
これはなかば羨望の念を込めて言うのだが、結局、著者はシリコンバレーに行って、立派なアメリカ人になったということかもしれない。個人史として、2002年7月にシリコンバレーでNPO、Japanese Technology Professionals Association(JTPA)を発足させた話が出ている。たまたま同年11月、シリコンバレーを訪れたとき、アップルの技術者に紹介されてベンチャーに取り組む数人の日本人若者(というか中年技術者)に会ったけれど、そのとき彼らが熱心に話していたのがJTPAだったように思う。
たしかにあの場には熱気があり、私は思わず彼らに「あなた方のような人こそが日本に戻って活躍するべきではないか」と言ったら、彼らは口をそろえて「いま日本に帰っても居場所がない。日本の組織がもっとガタガタになってから帰る」と言っていたのを妙になつかしく思い出す。
投稿者: Naoaki Yano | 2006年04月21日 21:35