「ケータイ小説」に描かれた「現実」(2008/4)
前回、若者のケータイに関して、年齢によってさまざまに区分けされたフィルタリングを導入するという考えについて述べた。一方、高校生のほぼ全員がケータイをもち、すでに不可欠な道具として活用しており、その現実の中から生まれたのが「ケータイ小説」と呼ばれる一群の創作物である。今回は、このケータイ小説について考えてみよう。
ケータイ小説は、ケータイという端末で発表され、読まれている小説のことだが、若者、とくに女子中高生の間で人気になり、単行本化されてベストセラーになったり、映画化されてヒットしたりして、ケータイが生み出す一つの文化現象として話題になっている。
読んだことのない人のために、まずその実態を紹介しよう。なかなかすさまじい内容である。
『DeepLove』と『恋空』
ケータイ小説の嚆矢と言われる『DeepLove』は最初、ケータイサイトで無料公開された。高校を落ちこぼれた若い女性が、男友だちと同居しながら、街で知り合った大人と援助交際をして大金を稼いでいる。主人公はある日、傷つけられた犬を飼う老女と知り合い、今度はそこに居候する。老女の遠縁にあたる、不治の心臓病を患う少年と純情な交流がはじまり、彼の手術代を稼ぐために、いよいよ援助交際に励む。稼いだ金は、少年の父親に結局は巻き上げられ、彼から乱暴もされる。少女はエイズにかかって、あっけなく死ぬ。
すさんだ生活と残虐さの一方で、飼い犬や少年に対する“無垢”な愛が、あまり必然性もなく、ただ乱暴な文章で書き続けられており、ふつうの人はちょっと読む気がしない。それが「純(ピュア)な愛」を描いたものとして、主として女子高校生の人気を呼び、2002年に横書きのまま単行本化されてベストセラーになった。
映画にもなり、上下2冊本で約200万部を売り、世に「ケータイ小説」を広めるきっかけになったのが『恋空』である。描かれているのは、高校という教育現場でのセックスであり、複雑な相姦関係をめぐる暴力、集団リンチ、妊娠、流産、さらにはシンナー吸引など、これまたきわめてすさんだ生活である。物語には、親や教師など大人も登場するが、背後の点景として描かれているだけで、まったく存在感はない。
主人公の女生徒は高校1年で男ともだちとつきあい妊娠するが、彼を横恋慕する女友だちに乱暴を受けて流産してしまう。彼女は恋人から突然、別離を告げられるが、がんに侵されているために交際を断ったという事実が後にわかり、彼女は新たな恋人と別れて、彼のところに戻っていく。しかし結局、彼は死んでしまう。
描かれた世界は、彼らの「現実」
前者は、ケータイというメディアに関心をもった中年男性の手になる創作、後者は、若い女性が自分の経験を書いたと言われている。現在のケータイ小説は、後者の系列につらなるもので、若い女性が自分の経験を綴った体裁をとるものが多い。ケータイ小説投稿サイトが、ケータイ、パソコン問わず、いくつも公開され、多くの作品が発表されている。大手新聞社も主催者に連なった「日本ケータイ小説大賞」が設けられ、2008年1月には米ニューヨークタイムズ紙が紹介するなど、ケータイ小説をめぐる論評も盛んである。
ケータイ小説の質的問題については、ここではふれない。私が興味深いと思うのは、現在の若者たちにとって、ここで取り上げられている出来事や心象風景が、決して他人事ではないということである。自分も同じような経験をしているか、そうでなくても、周囲によく似た状況がある(彼らがまったく勉強していないのも驚きだが、実際、そうだろう)。
いち早くケータイ小説に注目し、『DeepLove』、『恋空』の2著を刊行したスターツ出版の編集責任者の話によると、『DeepLove』の作者は、単行本化の計画をいくつかの出版社から断られた。そこでケータイサイトを通じて販売したところ、なんと10万部の注文があった。読者からの反響メールはほとんど「共感の嵐」で、「援助交際をやめます」とか、「これを読んでリストカットをやめました」といった声も多かったらしい。筋にはたしかに抵抗があったが、これだけ読者に響くコンテンツはないというのが、同社が『DeepLove』出版に踏み切った理由だったようだ。
いま、社会の二極化が言われるけれど、ケータイ小説があぶり出しているのは、たしかに、その一方の現実だろう。彼らは自分たちのある種の叫びを、寝床の布団の中で泣きながら、親指入力で書きつけ、あるいはそれを読んでいる。多くが小説を読んだことも、ましてや書いたこともないような若者たちである。
いまのケータイ小説の走りともなった『天使がくれたもの』(作者は女子高生、やはりスターツ出版刊)を同社が刊行したきっかけも、女子高校生からの編集部への電話だった。彼女は「ぜひ本にしてほしい。本にしてくれたら、私のクラス全員が買います」と涙ながらに訴えたという。
いまのケータイ小説には、もはや初期の激しさはなくなっているようだが、ケータイ小説が鬱積した社会の叫びを示したことは間違いないし、これを無視することもできない。それは、私たちが生み出した、まさに社会の現実である。
フィルタリング問題の難しさ
ケータイというツールの青少年への悪影響については、私は、大いに懸念する側の人間である。子どもたちはサイバー空間に入り込む以前に、現実世界のさまざまな肉体的なコミュニケーションを通じて学ぶことが、社会の健全な発達のために好ましい。一方で、すでにケータイが若者の間で、大人とは違う形で使われている事実も無視できない。それがケータイ小説という特異な表現物を生んだ。これらの作品を未成年者が見られないようにするのがいいのかどうかは、それこそ周知をあげて考えるべき問題である(1)。
<注>
(1)その点でも、ケータイやパソコンのフィルタリングを未成年者として一括するのではなく、とりあえず18歳未満、15歳未満の2段階で考えることが現実的だと思われる。前回にもふれた「サイバー元服」に関しては、矢野直明・林紘一郎著『倫理と法―情報社会のリテラシー』(産業図書、2008)を参照してほしい。
投稿者: Naoaki Yano | 2008年04月25日 11:00