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2008年06月02日

ヘッドハンティングにみる社会の「流動性」と「断絶」(2008/5)

 いつの間に世の中はこんなに変わってしまったのかと思うことが多い。前回取り上げたケータイ小説に描かれた若者たちの生活実態もそうだが、昨今のヘッドハンティングの隆盛ぶりもその例である。つい20年ほど前まで「日本人は企業にしがみついた『社畜』である」と言われていたのがウソのような社会的流動性の高まりである。

医者・弁護士・ヘッドハンター

 ひと昔前には、若者は、年長者から「困ったときのために、医者と弁護士を友人に持つように」勧められたものだが、いまはそこにヘッドハンターが加わるらしい。

 「ヘッドハンティング」が、いわゆる「転職」と違う点は、企業の意向を受けたヘッドハンターが、本人の意思とは無関係に有為の人材を発掘し、当該者にアクセス、転職を促すことである。得がたい才能の持ち主であれば、本人がいまの会社に満足しており、転職など考えたことがなくても、ヘッドハンターの標的となる。

 ヘッドハンティング(head hunting)と言えば、会社経営者の一本釣りかと思いがちだが、いまでは中間管理職、あるいは専門職と、裾野は広がるばかりである。ヘッドハンティング会社は、独自の陣容と調査能力を駆使して、各種の人材発掘に乗り出している。若いヘッドハンターの話では、新聞記者のように、夜討ち朝駆けもやるらしい。約束をとりつけて会おうとすれば断られる確率が高いので、ぶっつけ本番で説得に乗り出す。IT関連、医者専門、自動車業界といった分野を特化したヘッドハンティング会社もある。

 私の周辺にも、会社をめまぐるしく変えて社長業を続けている人や、医者専門のヘッドハンティング業務をしている人がいる。ヘッドハンターに声をかけられたことがあるという20代の友人は「転職する意思とは関係なく、転職サイトへ登録したり、ヘッドハンターと話したりすると、自分を客観的に見られて将来のためになる」と言っていた。ある大学院大学の学生20数人に「ヘッドハンターから声をかけられた人はいるか」と聞いたら、1人が「ある」と答えたが、これからは「ヘッドハンターに声もかけられないようではダメ」と言われるようになるかもしれない。

90年代初頭は「社畜」の時代

 早くは70年代から「転職」が社会的話題になり、生活関連情報誌を次々に発行してきたリクルートは、1975年に転職情報誌『就職情報』(後の『B-ing』)を創刊している。学生援護会から発展したインテリジェンス社が同じく転職情報誌『DODA(デューダ、2007年には誌名を『デューダ』と変えている)』を創刊したのが1989年である(その間に人材派遣業の隆盛など、社会流動性を高める潮流が加速している)。

 これらの転職雑誌は、インターネットの発達とともに、オンラインサービスへと重点を移行、いまでは相当数の就職・転職サイトが存在する。「転職」への社会的抵抗が薄れたのを見計らったように、いかにも欧米流の、ヘッドハンティングという、より積極的な(対面交渉重視の)転職ビジネスが加わったわけである。
 
 ところで、まだ1990年代初頭には、経済評論家の佐高信が、会社に縛られた日本人を「社蓄」と呼んで(家畜からの連想による「社畜」という言葉は佐高の造語ではないらしいが、彼がこの言葉を普及させた)、そこからの脱却を訴えていた。転職はなお大きな社会的潮流にはなっていなかったのである。『デューダ』がオンラインでも情報発信をはじめた1995年(同年はインターネット普及元年とも呼ばれる)が、「社畜脱却」の大きな節目になったと見ていいだろう。
 
新たなタコツボ化の推進

 たしかにインターネットは、社会的流動性を著しく高める役割をした。転職するにしても、雑誌に登録するには手紙か電話をしなければならないが、オンラインなら自宅から簡単に行えるから、内密な話にはうってつけだし、心理的障壁も低い。データをさまざまに検索できるから、求職、求人のつきあわせも容易である。インターネット・ビジネスでもっとも成功したのが、出会い系サイトも含めた人と人とのマッチングだろう。日本人の会社への帰属意識が急速に低下したのは、企業の吸収合併といった社会構造の変化によるところが大きいとしても、転職サイトの隆盛とも無縁ではないだろう。

 その反面で注目すべきなのが、「社会的流動性」の高まりと裏腹の「社会の断絶」現象である。それは、言ってみれば、ヘッドハンティングの対象となる大手企業のビジネスマンやキャリアウーマンの世界と、前回取り上げたケータイ小説で描かれる若者たちの世界の断絶である。2つの世界は、交わることなく同居している。

 サイバーリテラシー3原則の一つ、「サイバー空間には制約がない」で強調したのは、現実世界では歓楽街は川、公園、道路などで文教地区や住宅街から隔てられ、それが一定の行動の歯止めにもなっているが、サイバー空間ではそれらがシームレスにつながっている、ということだった。

 たしかに援助交際少女とエリートビジネスマンは、サイバー空間上でシームレスにつながっており、それぞれのサイトには自由にアクセスできるが、実際には、サイバー空間上で両者が交差することはほどんどない。サイバー空間では、同種の仲間うちの交流は活発化するが、異種の仲間たちとはいよいよ隔絶してしまう。

 両者がさまざまに交差するはずの現実世界のコミュニティは、すでに弱体化している。どちらかと言うと社会を束ねる役割をしてきたマスメディアは、しだいに影響力を低下させ、インターネットというメディアは、新たな社会のタコツボ化を推進している、とも言えるのである。

投稿者: Naoaki Yano | 2008年06月02日 14:13

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