現代社会を生き抜くために不可欠な「サイバーリテラシー」(2008/8)②
フリーターからネットカフェ難民まで
秋葉原事件のもう一つの特徴は、Kが学業を終えた後の職業遍歴である。事件直後からKが派遣社員で、派遣先の自動車工場(静岡県裾野市)ではいつ解雇されるかわからない不安定な環境にいたことが報じられている。
Kは青森県の高校を出た後、岐阜県の自動車関係の短期大学を卒業、仙台市の人材派遣会社に登録することで社会生活をスタートした。その後は自動車工場のトラック組み立てライン(埼玉県)、住宅建材メーカー(茨城県)、運送会社(青森県)などを転々としている。運送会社ではいったん正社員になったが、よりよい雇用条件を求めてなのか、自ら退職、東京の大手製造派遣会社に登録、そこから静岡の自動車工場に派遣された。
「軋む社会」の不協和音
この経歴をどう考えるべきだろうか。せっかく正社員になっても長続きしないこらえ性のなさを指摘することもできる。人材派遣会社に登録すれば、それなりの日銭を稼ぐことはできるが、契約は短期間で、景気変動の影響を受けて雇用は不安定である。残業時間が減れば収入も減る。だれにもできる単純作業が多いし、労働条件も悪い。一箇所に長く止まり、年月を積み重ねて技能を高めていくような派遣の仕事は少ない。しかもIT技術の発達は、それらの仕事を全国規模で探すチャンスを提供している。だからちょっとした条件の差に反応し、容易に転職もする。こういう労働環境には、Kの個人的事情を上回る、いびつな社会構造があると言えるだろう。この事件が「テロ」とも「無理心中」とも言われるのは、このためである(4)。
現下の社会情勢について、教育社会学者の本田由紀は『軋む社会』(双風舎)で、大略、以下のように書いている。
日本社会は1990年代中ごろから大きく変わった。それまでは、教育を終えると同時に安定的な仕事につくことができ、年ととも収入も増えた。ある年齢になれば結婚し子どもを生み、次世代である子どもの教育に費用や意欲を注ぎ込むという安定的な循環関係が、かなり多くの社会成員を巻き込むかたちで成立していた。ところが90年代半ば以降、こうした循環関係にいたるところで亀裂が入りはじめる。同時に、その循環関係が当てはまる層が社会の一部に限定され、そこからこぼれ落ち、放置される層が拡大してきた。その結果、「こぼれた層はもちろんのこと、表面的にはいまだ循環の内部にある層からも、鼓膜を裂くような鋭い『軋み』の音が響いている」と。
若者の置かれた過酷な状況
フリーター、アルバイト、パート、パラサイト・シングル、ニート、ワーキングプア、プレカリアート、若年ホームレス、ネットカフェ難民――。ちょっと思い出すだけで、「軋む社会」から搾り出されてきた、あるいは浮き出てきた目新しい横文字をいくつか思い出すことができる。ハケン(派遣)もまた、その一つと言っていい。高度経済成長下に誕生した「一億総中流」社会が、音を立てて崩れ落ちているのである。
フリーターという呼称は、一九八〇年代末にリクルート社員が作り出したものらしい。当初は会社にしばられない、自由で力強い働き方として肯定的な意味で用いられたが、その量的な増大と労働条件の劣悪化が明らかになるとともに、否定的な響きをもつようになった。ニート(NEET)はイギリス政府が労働政策上の分類として定義した言葉で「Not currently engaged in Employment, Education or Training」(雇用されておらず、教育を受けておらず、職業訓練もしていない)」の略。日本の労働白書では、「労働者・失業者・主婦・学生」のいずれにも該当しない「その他」の人口から「十五~三十四歳」までを抽出した人口(若年無業者)、とされている。「ニートは失業者ではない」という捉え方が一般化して、この言葉にも「働く気もない怠惰な人間」という否定的な意味合いがつきまとっている。
戦前に書かれた小林多喜二のプロレタリア文学『蟹工船』があらためて脚光を浴びているのも、現在の若年労働者の過酷な状況が、かつてのタコ部屋を連想させるからだろう。しかし、新しい言葉が使われる以上、新しい意味が付加されているわけで、そこには今の状況は若者自らが選んだのだというニュアンスが込められている。実際、若者自身が自分たちの境遇を、押し付けられたというより、自分が好きで選んだと考えている、あるいは思い込もうとしている節もある。それが大人たちの「自己責任」を追求する声と奇妙に符合しているわけである。
流動化する社会とIT
現在の情勢は、社会の流動化によってもたらされたものであり、それはもちろん、IT技術の発達と無縁ではない。この点に関しては、本連載でもケータイ小説の流行、ヘッドハンティング、ローン証券化などの話題を取り上げ、現実世界の流動化がサイバー空間によって加速されていることを指摘してきた。サイバー空間の影響をもろに受けて、これまで当たり前だった、あるいは合理的であると考えられてきた現実世界の社会秩序や社会システムが音を立てて崩れつつある。「軋む社会」もその一環である。
とくに日本人は、「個」と「社会」の緊張関係を通して、世界共通の普遍的な価値を築き、それに従って行動する欧米的な生き方は苦手である。日本人の多くは長い間、「世間」という独特の集団(および集団意識)の中で生活してきた。自分が所属する小さな「世間」の内では無原則的に(仲良く)、外に対しては無関心に(冷たく)行動してきたのであり、それがいま、グローバル化への不適応となって現われている。しかもその混乱のなかで、「世間」が持っていた長所を、まるで赤子をたらいの水といっしょに流すように、無造作に捨てつつある。しかも、それに代わり得る新しい生き方や倫理は確立できていない(近年の規制緩和策は、古いしがらみを解体しつつ、むきだしの弱肉強食社会を出現させた面が強い。規制緩和策を次々に断行した小泉政権を、多くの若者が支持したのも皮肉である)。
ここ数年騒がれ続けている食品偽装事件の悪質さ、年金をめぐる社会保険庁の混乱、官僚の堕落を浮き彫りにした「居酒屋タクシー」、大分県の教職員採用や昇進をめぐる教育現場の腐敗など、日本社会の混乱と倫理の失墜は目を覆うばかりである。若者の世界だけではなく、社会全体が大きく軋んでいると言えよう。
<注>
(4)たとえば朝日新聞紙上の東浩紀「絶望映す身勝手な『テロ』」(6月12日朝刊文化蘭)、藤原新也「映像が凶器の『無理心中』」(6月30日オピニオン欄)。藤原新也説は「Kは自分と同類の人々がいると思い込む秋葉原に行って無理心中しようとした」というもの。
投稿者: Naoaki Yano | 2008年08月31日 13:22