現代社会を生き抜くために不可欠な「サイバーリテラシー」(2008/8)③
密接に絡み合う「サイバー空間」と「現実世界」
サイバーリテラシーでは、現下の社会を、現実世界とサイバー空間が、あざなえる縄のごとく複雑に入り組んでいる姿と捉えている(5)。
秋葉原大量殺傷事件の背景に、現実世界とサイバー空間が絡み合う現代社会の混沌が透けて見えるが、このような激変する社会を生き抜くためには、「情報社会のリテラシー=サイバーリテラシー」が不可欠だというのが私の主張である。
新しいカリキュラムが必要
「サイバーリテラシー」は、ひとことで言うと、「IT社会を生きるための能力(基本素養)」であり、付言すれば、「IT社会のリテラシー」、「電子の文化のリテラシー」、「万人が情報発信するようになった時代のリテラシー」である。
それは、現代社会を、私たちが現に生活している「現実世界(リアルワールド)」と、インターネット上に成立した「サイバー空間(サイバーワールド、サイバースペース)」の相互交流する姿と捉えることで、これからの社会を快適で豊かなものにするための実践的知恵を導き出すことをめざしている。
リテラシー(literacy)とは、①識字能力、言語運用能力、②教養があること、③(特殊な分野・問題に関する)知識・能力」(『ランダムハウス英和大辞典第二版』)という意味だが、洋の東西を問わず、あらゆる社会(文明)は、そこに生きる人びとの基本素養を育成するカリキュラムを用意してきた。江戸時代なら「読み書きそろばん」、西欧中世なら「リベラルアーツ(liberal arts)」、中国をはじめとする儒教社会なら「四書五経」などがそれである。そして、現代IT社会のリテラシーこそ、サイバーリテラシーなのでる。
現段階のサイバー空間は、現実世界とはまるで違う原理で成り立っており、私たちはその便益を大いに享受しているが、一方で、現実世界でこれまで当たり前だった原理や秩序が、サイバー空間の影響を受けて激しく動揺している。これは人類がかつて経験したことのない事態である。サイバー空間と現実世界のほどよい共存を図るためには、社会システム全体の再構築が必要だが、同時に私たち一人ひとりが新しい時代の本質を理解しなくてはいけない。
学校裏サイトの実態
文部科学省の調査によると、いわゆる「学校裏サイト」は、全国の中学・高校の総数の2倍以上にあたる3万8000件余もあるという。群馬、静岡、兵庫3県の書き込み内容を分析したところ、そのうち50パーセントに「キモイ」、「うざい」など特定個人を中傷する言葉があり、37パーセントに性器などわいせつな用語が書かれ、27パーセントに「死ね」、「殺す」など暴力を誘発する言葉が含まれていた(6)。
子どもたちは自分の名前、住所、血液型などを書き込んで友だちを求めているが、そこには心のふれあい、相手を思いやる気持ちなどは希薄で、ただ目立ちたい一心からポルノ写真まがいの自分の画像を張りつける少女もいる。ここでの書き込みをめぐってトラブルが発生する例も多い。
かつて多くの人びとが、自分の心のうちに「死ね」、「殺す」などという言葉が浮んだだけでそれを恥じ、自ら恐れおののいたものである。このような乱暴な言葉が頻発するケータイ文化というものを考えると、情報社会のリテラシー教育がいかに欠けているかを痛感せざるを得ない。
青少年有害サイト規制法
子どもたちをこれらの有害サイトに近づけるべきでないという親の意見を反映して、「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律(青少年有害サイト規制法)」が6月に成立した。青少年(18歳未満)のケータイにフィルタリングソフトを導入することを原則義務づけるものだが、コンテンツ規制に関わるものだけに、何が有害なのか、だれが有害だと判断するのかをめぐって成立までに紆余曲折があったが、当面は民間で基準作りに取り組むことになっている。
私は、すでに書いてきたように、ケータイのフィルタリングそのものには賛成だが、インターネットをめぐるリテラシーをきちんと教育することを怠ってきながら、いきなりサイト規制に乗り出し、またそれでこと足れりとするようなやり方は感心しない。
疲弊した「現実世界」を立て直す
根は、もっと深いところにある。一口にリテラシーと言っても、インターネットの歴史は新しく、しかもシンポのスピードは速い。長じて後これらの道具を利用するようになった年長者と、物心ついたときからパソコンがあった世代、ケータイが当たり前の世代では、リテラシーの内容も異ならざるを得ない。親の世代にとっては、子どもたちに何を教えなければいけないのか(子どもたちは何がわからなくなっているのか)といったことすらわからないのが現実である。きめこまかなカリキュラムが必要なのだが、教育現場をはじめ、社会全体の取り組みはきわめて鈍い。
リテラシーの重要性は、もちろん子どもだけの問題ではないし、ケータイだけの問題でもない。
たとえば長距離トラックにはデジタルタコグラフが搭載され、速度やエンジンの回転数ばかりでなく、いつ走っていつ休んだか、仮眠中はエンジンを切ったかなどの運転記録が細かく記録されているという(7)。しかも、国はこれを「エコドライブ管理システム」と名づけ、補助金を出して導入を進めてきた。記事には、エアコンをつけたまま仮眠し、給料から八千円を引かれた運転手の例も紹介されていた。
こういうふうに運転手を徹底的に管理するためのIT技術の導入は、運転手の人間性を深いところで傷つける。IT技術を、ただ便利だからとか、効率がいいとかいう理由だけで無原則に導入することが、社会を疲弊させている例は枚挙にいとまがない。これもまたリテラシーの欠如である。同時に、IT社会をいかに生きるかを「情報倫理」の問題として考え直すことが必要である(8)。
「サイバー元服」という考え方
リテラシー教育で大切なことは、「サイバー空間」の侵食ですっかり疲弊した「現実世界」を立て直すことである。話をケータイと子どもたちに戻して一つの提案をすれば、そういう観点からは、子どもには思い切ってケータイを持たせない運動も一考に値するのではないだろうか。私はこれを「サイバー元服」と呼んでいる。
そのポイントは、①青少年とインターネット対策として、18歳未満という青少年有害サイト規制法の区切りとは別に、13歳から15歳の区切りを設定する。②かつての元服のように、一定年齢に達するまではインターネットやケータイの利用を一律に制限する。③法による一律禁止、ないしは制限よりも、社会的合意の成立をめざす。運用は自治体単位に決めてもいい、の3点である。
子どもが、現実世界の家族、学校、地域における肉体的コミュニケーションを通じて、社会で生きていくための基本的な行動様式(マナー)を学ぶ前に、インターネットを通じてサイバー空間に入り込むのは好ましくない。ケータイ利用を個々の家庭(親や子ども)の判断に任せておくと、横並び意識の強い日本では、どうしても他の子どもとの関係で持たせる方向に流れてしまうから、社会的合意の形成が必要なのである。
13歳から15歳のどの辺に設定するのがいいのか、ケータイとパソコン、ケータイのメールとウエブ閲覧の区分けなどは今後の検討課題だが、同志社女子大学教授で児童文化研究家の村瀬学は、子どもと大人の境界を13歳に置き(9)、13歳は子どもたちがはじめて法や掟=社会の仕組みに直面するときであり、自分をつくりかえていく、自分の中に自分を「産む」時期だと言っている。大いに参考になると思われる。
いまの子どもたちはケータイで遊びの約束をする。ケータイを持っていないと自分の子どもがいじめられたり、仲間はずれにされたりするという恐れが、多くの親が子どもにケータイを持たせる動機ともなっている。一定年齢まではケータイ利用を制限するという社会的合意が育まれれば、事態は大きく変わるのではないだろうか。
多くの人が「情報社会のリテラシー=サイバーリテラシー」の重要性に注意を向けていただけるとたいへん嬉しい。
<注>
(5)サイバー空間と現実世界の関係史については、拙著『サイバーリテラシー概論』第Ⅳ部「現実世界の変容とサイバーリテラシー」参照。ウエブの「サイバーリテラシーとは」に掲載した図3がそれで、サイバー空間と現実世界がほとんど密着し、複雑に絡み合っている様子を、メビウスの環を2つ組み合わせる形で表している。地球(現実世界)の表と裏の区別もなくなり、ねじれた現実世界の上部に、ほとんど縫い込まれるように、サイバー空間が張りついている。ジャーナリスト、トーマス・フリードマンが描いた『フラット化する世界』(日本経済新聞社)の現実がそこにある。
(6)http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0804/16/news082.html。
(7)朝日新聞2008年7月21日付朝刊「ルポにっぽん」。
(8)私は情報倫理を「情報のデジタル化が引き起こす問題に有効に対応するための倫理的課題を探る」ものと位置づけ、サイバーリテラシーとセットで考えている。
(9)村瀬学『13歳論 こどもと大人の「境界」はどこにあるのか』(洋泉社)。なお、サイバー元服については、矢野直明・林紘一郎『倫理と法 情報社会のリテラシー』(産業図書)で詳しくふれている。
投稿者: Naoaki Yano | 2008年08月31日 13:30