基本はウエブ上の「プラットホーム」(2009/2)
3回にわたってメディアの「現在」を見てきたが、年の初めにあたって、それではこれからのメディアはどのようなものになるのかというメディアの「未来」に思いをはせてみよう。はっきりしているのは、これからのメディアの中心がウエブであり、そこでの「プラットホーム」の重要さである。
未来のメディアの「覇者」
これからは「電子メディア」の時代である。従来の「紙のメディア」たる新聞や書籍、あるいは電波メディアとしての放送がなくなるわけではないし、ある意味ではむしろ、その有用性や重要性が再認識されるだろうが、「紙」や「放送」単独でものごとを考えるわけにはいかない。各メディアを全体のメディア状況の中に位置づけ、そこでの共存を図るという意識が不可欠である。そこではパーソナルメディアやマスメディアといった区別はほとんどなくなるだろう。
よく言われることだが、本というメディアがいまのような形になるのは、15世紀にグーテンベルクが発明した活版印刷術に多くを負っているが、グーテンベルクが印刷した42行聖書は、説教壇に置かれた大きな手書き聖書と同じ体裁だった。彼は手書き聖書を模倣するために活版技術を使ったわけで、この技術を使えば、持ち運びに便利な書物ができるのだと、人びとが考えつくまでには百年単位の年月を要している。
Web2.0はインターネットの世界を大きく変え、それにともない、インターネットというメディアの様式もまた変貌を遂げた。ウィキペディア、ユーチューブなどの新たなメディアが次々と登場し、「ユーザーの積極的参加」、「集合知」なども話題になった。インターネットが持つ潜在的可能性をうまく引き出した者が、未来のメディアの覇者になることだけは間違いない。
コンテンツとプラットホーム
これからは、情報流通基盤としてのインターネット、情報通信法構想の言葉を借りれば、唯一の「コンテンツ配信・商取引・公的サービス提供基盤」の上に、さまざまなコンテンツが載る。だから、そこにどのようなコンテンツを用意するかと同時に、それらをまとまった情報として編成していく「プラットホーム」の役割が重要となるだろう。情報通信基盤のあり方と同時に、その上に載るコンテンツビジネス、プラットホーム企業が今後のメディアの主役になると思われる。
私の危惧は、このようなメディア大激変が、実用情報重視、ビジネス優位という考えのもとに進んでいることである。既存マスメディアは自らの既得権が失われるのを恐れ、改革に反対する保守的態度を強めているが、これもまた危うい。むしろ、プラットホーム上に新たなジャーナリズムを追求する意気込みがいま求められているのではないだろうか。
これは、言うに易く、行うに難い。何よりも、新聞、出版、放送、通信――、既存ジャンルを超えたメディア企業の抜本的再編を伴う。だからこそ、そこに新たなジャーナリズムを築き上げるという強靭な意志と、それぞれのメディアが長い歴史の中で築き上げてきた知恵(ジャーナリズムの伝統)を生かすべきだろう。それこそが、「総メディア社会」のバランスある構成を可能にすると思われる。
アメリカ通信品位法の例が示すように、業界再編のような大事業が展開されるとき、「表現の自由」のように、重要だけれど、守るに難しい権利は、ともすれば置き去りにされがちである。それに異を唱え、通信品位法の違憲判決を勝ち取るためには、人権団体をはじめとする多くの人びとの活動が必要だった。
マスメディアも、オンライン・ジャーナリズムを志向する団体や個人も、いずれは新たな「プラットホーム」(この言葉を使うかどうかはともかく)を築き上げることになるだろう。ジャーナリズムに関して言えば、これからより重要になるのは、①オリジナルな情報をどう提供できるかという取材力、②世界をどのようなものとして提示するかという編集力、である。
ライターとエディターの新たな集団(組織)を築き上げる必要がある。個々の記事がばら売りされる場合もあるし、価値判断を加えた紙面として提供されることもあるだろう。そのモデルを既存企業に探せば、通信社に近い。ニュースというコンテンツを製作し、それを編集する「ジャーナリズムのプラットホーム」である。
そうすれば、長い年月と多数の人員をかけた調査報道のような活動もあらためて可能になるし、個々の記者が権力など外部から攻撃されることを防ぐ盾ともなり得るだろう。こういったアグレッシブな再編が既存マスメディアに求められていると言えるだろう。
記事と広告の関係にしても、ウエブにおいては両者が分かちがたく結ばれ、それはそれで長所でもあるけれども、この癒着関係が公正な事実の報道をゆがめがちなこと、広告と結びつかない記事が敬遠されがちなのも事実である。新たなジャーナリズムのブランドを押し出す可能性はあるのではないだろうか。
見直される?パッケージメディア
紙のメディアである新聞や書物は、長い歴史を経て、その様式を発達させてきた。人類は「声の文化」から「文字の文化」へ移行したとき、声を捨てたわけではない。「電子の文化」における「紙の文化」は、いよいよ重要になるかもしれない。
ジャーナリズムのような地味だが重要な活動は、紙にこそふさわしいとも言える。立花隆の「田中角栄研究」は雑誌を舞台に、新聞では報じられなかった関係者周知の事実や、折々に報じられた小さな断片をオリジナル取材も加味して、ジグゾーパズルのようにつなぎあわせて、田中金脈の全貌を暴きだした。雑誌ならではの調査報道だったのである。
だから従来のパッケージ系メディアは、依然として「総メディア社会」の確たる一隅を占めるけれど、必要なのは、それぞれのメディアが全盛だったころ勝ち得た圧倒的な売り上げや評判を今後は期待できないという覚悟である。メディアの世界においても、創造的破壊の時代が来ている。
投稿者: Naoaki Yano | 2009年03月31日 21:49