クラウド・コンピューティング(2009/8)
クラウド・コンピューティングといって、データやプログラムをネットワーク上に置くことがさかんになっている。そうしておけば、自宅でも、会社でも、海外でも、どこからでもデータにアクセスでき、作業も続けられる。複数の人間で共同作業もできて便利というわけだが、ここで記憶や記録をネットワーク上に蓄えることの意味を考えておこう。
記憶・記録をネットに蓄えることの意味
クラウド・コンピューティングとは、ユーザーが自分のパソコンや会社のサーバーにインストールされたプログラムを使ったり、そこにデータを保存したりするのではなく、インターネット上の汎用サービスを受け、データもネットワーク上に置いておく仕組みである。クラウドは雲(cloud)のことで、コンピュータ・ネットワークを雲の形で図示することから来ている。
現実世界からサイバー空間へ
パソコンからネットワークへの移行は、これまでもネットワーク・コンピューティングとか、ウエブサービスなどと呼ばれてきたが、2006年にグーグルのCEO、エリック・シュミットがクラウド・コンピューティングと名付け、アマゾン・コムなどが大規模なサービスを始めて、あらためて脚光を浴びるようになった。
個人よりも企業が主たる相手で、その典型がサーズ(SaaS=Software as a Service)である。インターネット上で提供されている企業会計や販売管理ソフトなどを使えば、自社でこれらのシステムを開発するのに比べ経費節減になるし、大掛かりなシステムを開発できない中小企業も、同じ性能のソフトを使うことができる。これらのソフトや膨大なデータを蓄積できるインフラ(サーバー)も用意されている。
このクラウド・コンピューティングは、個人にもどんどん広まっている。アメリカでは、街を歩いていて思いついたこと、目についた看板、風景、音声など、あらゆるデータをその場でどんどんネットワーク上に蓄積、個人データベースを築き上げる動きもあり、音声や映像の検索機能も発達しているらしい。
まさにすべてのデータが、現実世界からサイバー空間へ移行しつつある。
記憶をどこに蓄えるか
私たちはこれまで記憶をどこに蓄えてきただろうか。歴史的には、以下の変遷をたどっている。
①自分の脳、あるいは身体
②文字で書かれた記録―日記、書物
③自分で管理するパソコン―ハードディスク、USBメモリー
④他人が管理するネットワーク―クラウド・コンピューティング
文字が発明されたころ、これに反対した人はたくさんいて、たとえば、ギリシャの哲学者、ソクラテスはこう言っている。「現実には精神のなかにしかありえないものを、精神のそとにうちたてようとする点で、書くことは非人間的である」、「書くことは記憶を破壊する。書かれたものを使う人間は、{精神の}内的な手段としてもっていなければならないものをもたず、そのかわりに外的な手段によるために、忘れっぽくなる。書くことは精神を弱める」(1)
中国の古書、『荘子』(天道篇)には、斉の桓公の逸話としてこんなことが書いてある(2)。
桓公が座敷で書見していると、庭で仕事をしていた車大工がそれをのぞき込んで「殿様、何を読んでおられますんで」と聞いた。「聖人の言葉を学んでいるのだ」、「聖人はまだご存命で?」、「いや、とっくにお亡くなりになった」、「ということは、あなたは聖人のカスを読んでおられるわけですね」。 むっとする桓公に、車大工はこう言ったという。
車をつくるときの木の削り方一つとっても、コツというものがあって、それは手ごたえでとらえ、心にうなずくだけ、言葉で伝えられるようなものではない。そのコツは子どもに伝えることはできず、子どもも私から受け継ぐことができない。だから七十歳の今も私は車を作っているのです。私の小さな経験から考えても、古の聖人は、伝えることのできない体験的な真理とともに、すでに世を去っており、したがって、いま殿様の読んでおられるのも、聖人のカスでしかない、と。
仏教、とくに禅宗には不立文字という言葉がある。文字では表現できないものがある、という意味で、知識は肉体から離れることで、かえって大事なものを失うという警告でもある。近代法においては、「内心の自由」が保証され、心に思っただけで罰せられることはない。外面的なものは法、内面的なものは倫理で規制するというふうに、一種の分化が行われたわけだが、そのために内面の倫理の重みが減じた。
体験の内実が衰弱する恐れ
さて、コンピュータはどうか。アメリカの大学教授は「コンピュータという不思議な機械の出現によって、検索できないものは何もない、だからすべてを忘れてもかまわないことになった今日、昔からの学問の本義はその根底から揺さぶられている」(3)と嘆いた。
コンピュータを使うと言っても、当初はプログラムやデータは自分で管理できるパソコンに保存したから、それらはまだ身近にあったが、クラウド・コンピューティングでは、他人が管理するネットワーク上に置かれる。
セキュリティ的にはかえって安心という面もあるようだが、結局は他人任せだから、ネットワーク・トラブルにでもなればお手上げである。しかし、すべてをサイバー空間に蓄えるやり方は、もっと深いところで私たちの感性に大きな影響を与えるように思われる。
ネット中傷事件などでは匿名発言の「軽さ」が特徴的だが、インターネットの普及で「内心の自由」はさらに肉体から遊離され、自由になった。その結果が「実際には思っていない(心にもない)ことまで平気で言う」風潮である。ここには自分の発言に責任をとるといった近代的な精神も、他人を攻撃する自分に対する恐れといった前近代的な感性もない。
言葉が言葉単独で浮遊しており、私たちの経験、体験の内実が衰弱している。このこととクラウド・コンピューティングとは、どこかでつながっていないだろうか。
注
(1)プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫
(2)福永光司『荘子 外編・中』(朝日新聞出版)による
(3)ゲーリー・ガンバート『メディアの時代』石丸正訳、新潮社、原著1987
投稿者: Naoaki Yano | 2009年09月02日 14:50