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2009年10月09日

伝統の知恵を新技術にあわせて切り刻む(2009/9)

 前回に続いて、技術と社会の関係について考えてみよう。技術革新は常に既得権益をもつ旧勢力から根強い抵抗を受ける一方で、新しい技術によって恩恵を得るべき新勢力からは気のない支援しか受けられない、というのはよく言われることだが、ここで問題にしたいのは、新しい技術が古い伝統や知恵を破壊しがちなことである。

 eラーニングとはインターネットを利用した遠隔教育、すなわちオンライン教育で、私が勤務するサイバー大学はその先駆的試みでもある。

eラーニングのメリット

 eラーニングではプレゼンテーション・ツール(たとえばマイクロソフトのパワーポイント)を使って教材をつくり、それを講師の動画に連動させて流す。教材は、いわば教室の黒板だが、黒板では教師がリアルタイムで重要箇所を書きつけるが、教材はそれをあらかじめ用意しておくところが違う。

 私の経験によれば、この教材づくりは実にたいへんで、準備にふつうの講義の3倍はかかる。また講義中に冗談やだじゃれ、あるいは日々の出来事をめぐる雑談などは憚られるという事情もあり、内容はおそらく通常の授業の2倍は入る。しかも双方向システムで毎回、ちょっとしたテストを行ったり、レポートを書かせたりするから、きちんと受講する学生は、知識習得という点に関して言えば、通常の授業のたぶん数倍は学べると思う。

 もちろん対面授業でないことのデメリットは十分認識している。このデメリットを補うメリットをいかにうまく引き出すか、あるいは対面教育との上手なすみわけがeラーニング教育の要諦だと言ってもいい。どこからでも、自分の空き時間を利用して学べること自体、働きながら勉強しようとする人にとっては大きなメリットである(サイバー大学には社会人の学生が多く、しかも勉学への熱意は非常に強い)。もっとも、eラーニングそのものを論じるのは別の機会に譲り、ここで教材づくりという一つの作業を通して私が感じたことを述べておこう。

オンライン教材と教科書

 オンラインの教材は黒板代わりでもあるが、教科書に代わるものとも言える。ところが、この教材の作り方が教科書とはまるで違う。教科書を作るにはプロの編集者がいて、どちらかといえばアマの教師を補佐して、内容も、体裁もそれなりのレベルに近づけてくれる。ところがeラーニングでは、この種の編集のプロが介在するところは少ないようで、ID(インストラクショナル・デザイナー)とかCS(コンテンツ・スペシャリスト)を名乗る担当者がいるが、彼らはアプリケーションソフトのプロかもしれないが、教育や編集に関して言えば、どちらかというと素人である。きちんとしたディレクターを配し、編集のプロも要したプロダクションもあるので一概には言えないが、安く仕上げようという傾向が露骨で、いい作品を作ろうという意識は希薄である。

 黒板代わりと考えれば乱雑でもいいということかもしれないが、万人が情報発信できる時代の美しい情報環境を築き上げたいと考える私から見ると、まことに残念な事態という他はない。
 
 プレゼンテーション・ツールを使ったページの見出しの位置、本文枠の位置なども、上下左右のバランスなど一番美しい形を追求すべきだと思うが、それを望むと「いまのソフト(プログラム)では、そのようなことはできません」という言葉が返ってくる。技術でできないものは無理だと単純に考えており、従来の編集現場で大事にされてきた作品のデザイン、見やすさなどは平気で無視される。彼らにそのような現場で働いた経験がないから、それはそれでもっともなわけである。

 このことを大胆に一般化すると、技術の限界がそのまま作品の限界になり、それでしょうがないという技術本位の考え方が蔓延している。技術の欠陥を手作業で補おうとする気持ちもないし、そのノウハウもない。プロの矜持がないというよりも、プロとして養成されていない。流来のメディアづくりで培われたノウハウが、新しいオンラインメディアで踏襲されていないということでもある。

 かつてDTPによる本の編集に立ち会ったとき、出版社における編集技術の衰退に驚いたことがあるが、ここでは編集ノウハウはもはや消滅寸前で、メディア環境は劣化するばかりである。
 
 ちなみに、関連イベントなどでeラーニングを喧伝している人たちの顔ぶれを見ても、教育のプロとか編集のプロというよりも、コンピュータのプロである場合が多く、eラーニングソフトを売り込みたい企業の思惑が先行しているようである(最近では大学のeラーニング研究も進んでいるので、いずれは変わってくるだろうけれど)。

新旧システム間の人材交流

 既存マスメディアの衰退ぶりは、折にふれて言及しているように、「総メディア社会の進展図」に明らかだが、既存メディアで培われてきた編集をめぐる知恵や技術もまた失われてしまうのはもったいない。
 
 紙のメディアの衰退で既存の編集プロダクションは青息吐息である。一方で、eラーニング現場に、この種の人材が吸収されているという話はあまり聞かない。これは大いなる社会的損失ではないだろうか。激しいメディア地図の変容に見合った、効果的な人材交流の体制作りが必要なように思われる。

投稿者: Naoaki Yano | 2009年10月09日 12:05

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コメント

こんにちは~。
eラーニングの良さもありますが、結局本当の技術伝授と言う意味では
何も伝わっていないことを感じます。
企業は、eラーニングを通じて多くの人に学んで貰おうとしてますが
ノウハウの伝授までには至っていません。
是非、技術者の誠の技術の伝承を、一般的なノウハウを
伝えることができれば、日本の将来は明るいと思います。

投稿者: yama | 2009年10月09日 19:17

 yamaさん、コメントありがとうございます。
 結局、技術者の役割がいよいよ重要になってくるとも言えますねえ。

投稿者: Naoaki Yano | 2009年10月11日 22:16

EPAによりフィリビンとインドネシアから看護師を日本でも就労できるような仕組みが出来2年ほどになるが、その仕組みの欠陥は発足時から懸念されていた。いよいよ現実になってきた。秋頃、来年度の募集説明会で配られた分厚い書類を読んで行くうちに日本語の勉強についてのウェブサイトの紹介とイ-ラーニングのサイトを紹介するページがあったのでそれぞれを見て驚いた。なんていい加減な教材なんだろう。と。なにも考えて作られてない。先生が言われるとおりで、まさに出版・教材・デザイン物は編集者やデザイナーというその道で修業を積んで感覚で覚えてきた人でなく、パソコンオペレーター(普通にパソコンが扱える人を含む)
の仕事となってしまった。それはひとえに紙面レイアウト系やグラフィック系パソコンソフトの大衆化により、デザイン等の勉強をしなくてもそこそこの紙面やデザイン物は出来てしまう。それがただ単に一部で行われているだけならばそれで良いかもしれないが、その波が発注側の感性や感覚やモラルの低下と、コストの低下がデザイン会社の経営を圧迫し、さらに頻繁なソフトメーカーのバージョンアップの対応に追われ
、零細なまたは個人のデザイナーの多くが廃業を余儀なくされている。ここ数年は特にその傾向が強い。この現象は商業美術や芸術の裾野を狭め、行くいくは文化の崩壊へつながりかねない。パソコンによるデザイン作業が普及してない頃は年商2-3億あり、デザイナーも10名ほどいた知人のデザイン会社が先日廃業した。「新たな文化が生まれる」と云うかもしれない。ある点ではその通りだが、間違いなく裾野は縮まっている。

投稿者: 堤幹夫 | 2010年12月13日 11:37

 コメントありがとうございます。
 1年以上前に書いた原稿に、こうしてup to dateなコメントをいただけるのは電子メディアのいいところです(^o^)。

 まことに、我が意を得たコメントです。僕の友人の編集プロダクションも悪戦苦闘していますが、IT関連分野の人たちが編集とか情報発信とかいう精神活動のあり方にあまり関心がないのは困ったものですね。アメリカでは社会流動性が強く、旧メディアから新メディアへの人的交流も進んでいますが、日本はダメですねえ。日本人はITにうまく適応できず、そのために短所を助長し、長所を失っているというのが僕の危惧です。その点についてはしつこく書いたりしていますが、反応はあまりなく、したがって堤さんのコメントを嬉しく拝見しました(^o^)。拙著『サイバー生活手帖』の「それにしても なんとかならぬか」辺りもご覧になってください。

投稿者: Naoaki Yano | 2010年12月13日 12:33

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