ケータイ語を支える日本語入力システム(09/10)
インターネットの世界は日々めまぐるしい変転を見せているが、目下の傾向は、①パソコンからネットワークへ、②パソコンからモバイル端末へ、という2つの流れに集約できるだろう。
パソコンからネットワークへという動きは、すでに何度も触れてきたように、現実世界からサイバー空間へ、と表現することもできる。クラウド・コンピューティングがその典型で、企業レベルでは、マイクロソフトからグーグルへ、でもある。もちろん長い間、IT業界をリードしてきたマイクロソフトが手をこまねいているわけではなく、検索エンジンに関してはヤフーとの提携を深め、グーグルに対抗しようとしている。
これはこれで熾烈な覇権争いが続いているわけだが、今回は第2の側面、パソコンからモバイル端末へという動きに関連して、日本のケータイが採用している日本語入力システムについて紹介する。
ケータイ独自の方式
たとえばパソコンで「先日はわざわざご来訪いただき、どうもありがとうございました。」という文章を入力するとき、まず「せんじつは」と入力して、これを「先日は」に変換、「わざわざごらいほういただき」、「どうもありがとうございました」というふうに文節ごとに変換するのが普通である。固有名詞や自分のよく使う表現などはあらかじめ単語登録しておく人が多いと思うが、基本はあくまで文節ごとの変換である。
同じ文章を手元のケータイで入力してみる。「せ」と入力すると、画面下に予測候補として、精神、静養、せよ、全身、世界、先生、ぜひ、贅沢、政界などの単語がずらりと出てくる。ここに「先日」がなければ、「せん」まで入力する。先週、全然、先生、選手、前年、センターなどの候補が、濁音とか、カタカナ、あるいは数字などの区別なく、「せん」、あるいは「ぜん」に関連する言葉がいくつも出てくる(last weekもある)。たいてい、この辺で「先日」が出てくると思うが、そこでも出てこなければ「せんじ」まで入力すれば、まず間違いなく出てくるだろう。ここで「先日」を選択する。
「先日は」の次に「わ」を打つと「わざわざ」と出て、「ごらいほう」から「ご来訪」を選び、次に「あ」と打つと「ありがとう」が出てくる。これを選択すると、次の語句「ございました」、あるいは「ございます」といった句が自動的に出てきて、最後に「。」も出てくる。
POBoxと連想入力
ケータイ・メールを利用する人にとっては、もはや当たり前の話だと思うが、この入力システムそのものが開発されたのはそれほど古くはない。「POBox」と呼ばれるこの文章入力補助機能は、現在、慶応大学環境情報学部教授の増井俊之氏が1996年から2003年にかけて在籍したソニーコンピュータサイエンス研究所時代に開発したのだという。その増井氏に最近お会いしたが、彼によれば、これは一種の連想入力で、単語の先頭部分を入力すると、その単語の使用頻度や過去の入力内容を参考にして、ユーザーが入力したい単語を予測して候補を表示するようになっている。候補表示とその順位は、当人が過去にどのような文章を書いたかの履歴によっても決まる。だから、2度目に同じ文章を入力しようとすると、「せ」を打っただけで「先日は」、「わざわざ」、「ご来訪」、「いただき」、「どうもありがとうございました」、「。」と一気に文章が完成する。
パソコンでは長らく日本語変換という言葉を使ってきたが、ケータイは「変換」ではなく「選択」と呼んだ方がぴったりする。増井氏は2006年にはアップルに移り、アップルのモバイル端末、iPhone(アイホン)の入力システムも構築している。もっとも、この連想入力方式は、いまではほとんどのケータイで採用されている。
たとえば若者のラブメールの場合、相手の名前も、「デート」とか「好き」とか「嬉しい」とか「ちゅ」とか「○○たん」とかいう、いつも使う言葉や言い回しはすぐ出てくるし、♡とか喜怒哀楽を示す顔文字なども、一度使えば、次から候補に出てくる。
パソコンの入力ソフト(FEP)に比べるとずいぶん柔軟だが、候補一覧には自分のよく使う単語が優先的に表示され、性癖がうかがわれるところがちょっと不気味でもある。
ケータイ文化にも一役
これが日本語入力独特の工夫だというところがおもしろい。ケータイを使ってメールを書く場合、最初は親指入力そのものに戸惑うし、コピー、ペースト、文章の移動などの操作が面倒で、パソコンになれた人にはずいぶん書きにくいが、なれてくると、なかなか捨てがたい味がわかってくる。日本語入力という点でも、ケータイは新しい文化を築き上げているといえるだろう。ケータイはケータイでパソコンとはまた違う道具であり、人びとの情報生活におよぼす影響もまた異なったものになるだろう。
ケータイ・メールには、文章というよりおしゃべりに近い、大人語というより幼児語に近い、遊びの要素が強い、などいくつかの特徴がある。たとえば、三宅和子「ケータイ語―ことば遊び文化の落とし子」(『文藝春秋』季刊2008年秋号『素晴らしき日本語の世界』所収)に「代表的なケータイ・メールのことば遊び」という表が掲げられているが、こういった表現が生まれてくる背景に、定型文章を書くには便利だが、表現がどうしても画一化してしまうケータイ独自の入力方式があるとも言えるのである。
投稿者: Naoaki Yano | 2009年11月19日 15:47