サイバー空間が「環境」になった世代は、それを使いこなし、それに流される?(2010/1)
「デジタルネイティブ(digital natives、デジタル原住民、生まれながらにITに親しんでいる世代)」と呼ばれる若者たちが、これからどんどん社会に進出してくる。彼らはインターネットを上手に使いこなし、あるいはその罠にはまっているが、サイバー空間を所与の「環境」と認識している点で共通している。その環境が技術で人工的に作られているという意識が希薄なために、技術の仕組みに振り回される恐れも強い。今回は拡大版でもあり、前2回の話題を追いながら、現代社会と若者の問題をあらためて考えてみたい。
サイバー空間と現実世界の交流史を、もう少し段階的に見ておこう。図を見ていただければ一目瞭然だが、
①は1970年代以降のインターネット黎明期で、サイバー空間と現実世界は牧歌的な共存関係にある。
②は1990年代以降のインターネット普及期で、サイバー空間が地球を覆う薄い雲のように現実世界を覆っている。
③はウエブ2.0が普及した2000年代以降で、サイバー空間と現実世界は、あざなえる縄の如く絡みあっている。
そして現在もまた③の段階にあるが、この図は下半分がサイバー空間、上半分が現実世界の楕円形のように描くこともできる。現実世界がサイバー空間の上にそっくり乗った形で、政治、経済、文化などすべての社会システムがサイバー空間上で動いている。パソコンに例えれば、サイバー空間が基本ソフト(OS)で、現実世界のさまざまなアプリケーションがその上で動いている。インターネットがいよいよ社会の隅々まで浸透している現在、むしろこの図の方が分かりやすいかもしれない。サイバー空間と現実世界は、まさに分かちがたく結ばれ、デジタルネイティブの若者たちにとっては、両者の融合した世界こそ「現実」である。
サイバーリテラシーは、何度も書いてきたように、サイバー空間が現実世界とはまるで違う原理で出来上がっていることを理解することで、現代IT社会を豊かで快適なものにするための知恵を生み出すことを目指している。
当初の目的は、「デジタルイミグラント(digital immigrants、デジタル移民、IT普及以前に生まれてITに無関心か、あるいはそれを身につけようとしている世代)」に、サイバー空間の特性を理解する大切さを訴えることだったが、そして、それは今も変わらないけれど、これからは、サイバー空間の住人になりきっている、デジタル語を母国語とする若者たちに、自分たちの環境を相対的に見る目を養ってもらうことも重要になってきた。
社会的包摂・社会的再帰性・リスク社会
現代社会の諸問題はもちろんITによってのみ引き起こされたものではなく、そこには政治的、経済的、社会的な要因が絡んでいるが、ITがその動きを加速し、また変形しているのは間違いない。
一般に「ポストモダン(後期近代)」と呼ばれる現代社会に関しては、アンソニー・ギデンズ、ウルリッヒ・ベックなど、多くの学者、主にヨーロッパの社会学者が、さまざまに洞察している。それはどういう考え方なのか、いくつかのキーワードを紹介しておこう。
<社会の包摂性(ふところの深さ)>近代化以前の社会では、すべてが家庭や地域などまわりの環境に埋め込まれていた。家事と職業の区別もなく、教育もまた家庭や地域で行うものだった。近代化によって職業の分化が行われ、教育も家庭から離れて学校へと移る。私たちの周辺にあったものごとが外部の社会システムへと移されていくが、そのシステムが肥大化すると、社会は硬直したものになり、一方で、私たちのまわりの生活はすっかり空洞化してしまった。
この点を我が国の社会学者、宮台真司は「ポストモダン時代の<システム>の全域化と<生活世界>の空洞化」と呼んでいる(1)。平たく言うと、駅前商店街がさびれ、郊外にコンビニが出現したわけである。彼は、こう言っている。「<生活世界>が空洞化すれば、個人は全くの剥き出しで<システム>に晒されるようになります。『善意&自発性』優位のコミュニケーション領域から『役割&マニュアル』優位のコミュニケーション領域へと、すっかり押し出されてしまうことになります」。
彼は「社会の底が抜けた」という表現を使っているが、社会の柔軟性、伸縮性、融通無碍さが失われるわけだから、「社会の底が打った」と言った方がわかりやすいだろう。たとえば以前なら不況時に人びとは田舎(故郷)に帰って農業を手伝うなど、なんとか生き延びることができた。農村のふところが深く、都会に出て行った身内が戻ってきても、受け止められたのである。いまはすべてがシステム化してしまったために、農村にそのような余裕はない。「社会の包摂性(ふところの深さ)」が失われたわけである。
<再帰的社会>もはや私たちは、家庭や地域、企業や国家といった外部システムに身を委ねてのんびり生きていくことはできない。私たちの行動がそのまま社会やシステムに跳ね返ってしまうからである。イギリス・ブレア政権のブレーンも務め、「第三の道」を提唱した社会民主主義者、アンソニー・ギデンズは、これを「社会的再帰性(reflexivity)」と呼び、大著『社会学』の中でこう書いている。
「社会がもっと慣習や伝統と連動していた時代には、人びとは、非再帰的な仕方で既成の行動様式を踏襲することができた。以前の世代にとって簡単に当然視できた生活の多くの側面は、私たちにとってはむき出しの意思決定の問題になっている。たとえば、何百年ものあいだ、人びとは家族の規模を制限する有効な手段を何も持っていなかった。現代の避妊方法や他の生殖技術によって、親たちは、たんに産む子どもの数を選択できるだけではなく、生まれてくる子どもの性別を決めることさえできる。もちろん、これらの新たな可能性は、新たな倫理上のディレンマをともなう」(2)。
すべてがコントロールできるようになったために、以前のように伝統や運命に任せることができず、個々の問題について、いちいち決断せざるを得なくなった。医療におけるインフォームドコンセントがその例で、専門家の医師に任せたり、運命に委ねたりしていたことを、今では、私たちが決断しなくてはらない。
<リスク社会(risk society)>リスク社会の理論はウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズによって提起、発展させられたが、これも私たちの選択・決断と大きくかかわっている。
リスクは危険とは違う。地震や台風などの天変地異は、私たちの決断とは(いまのところ)関係がなく、これは危険だが、地球温暖化になると、私たちのエネルギー消費と密接に関係してきて、リスクと認識される。再帰的近代において、私たちはこのようなリスクを常に感じて生きていかなくてはいけない、というのがリスク理論のエキスである。リスクは、たとえばチェルノブイリ原発事故のように、ひとたび間違えば、人類に大きな影響を与えるし、一国内にとどまらず、グローバルな広がりを持つ。被害をあらかじめ正確に測ることもできないにもかかわらず、私たちは原子力発電、遺伝子組み換え作物、金融危機、頻発するテロなど、多くの決断を迫られている。
デジタルネイティブとイミグラント
サイバーリテラシーもまた、このような歴史的文脈のもとで考えなくてはいけないが、この問題をデジタルネイティブとイミグラントの関係で見ておこう。
たとえばインターネットやケータイと子どもたちの問題を考えるとき、子どもはすぐケータイ操作になれて、その結果として危険に遭遇したりするのだが、それに対して親が十分監視しないことが問題になる。ケータイでは何ができるのか、どういう危険があるのか、といったことをよく考えずに子どもにケータイを与えたり、インターネットにアクセスさせたりしている親がなお多い。
なぜなのか。ここでデジタルイミグラントという言葉を思い出すと、思わず納得するのではないだろうか。明確には意識されていないけれども、子どものほうが原住民で、親は移民、という引け目がどうしてもあるために、なかばお手上げ状態で、子どものインターネット・アクセスやケータイ所持を放任してしまう。
私がデジタルイミグラントにとっても、デジタルネイティブにとっても、サイバーリテラシーはいよいよ不可欠だというのはこのことである。サイバー空間は現実世界を激しく変えつつあるが、一方で、サイバー空間をより快適なものへと作り変え、同時に、このサイバー空間の影響でたじたじとなっている現実世界の復権を目指さなくてはならない。
新しいサイバー空間を開拓するのはデジタルネイティブだろうが、ここでデジタルイミグラントが手を拱いているのではなく、新しい動きを好奇心をもって見守りながら、相携えてより豊かなIT社会の実現をめざすことが、デジタル移民である大人たちの責務だと言えよう。デジタル移民の踏ん張りが要請されているのであり、デジタルネイティブとの共存を図らなくてはならない。
そのためには、デジタル移民のサイバーリテラシーを高め、親が、大人が、インターネットやケータイに対する理解を深めるべきだろう。個人一人ひとりの選択がそのまま社会に跳ね返る、これからのIT社会を生きていくためには、個人の自律と社会秩序のバランスを、改めて考え直す必要もある。
アーキテクチャによる管理
個人の自律と社会秩序のバランスと書いたけれども、こういった社会の捉え方そのものが、若い人にはすでに古いと受け止められるかもしれない。たとえば濱野智史『アーキテクチャの生態系』(3)という本は、インターネット上に次々に成立するブログ、SNS、2ちゃんねる、トゥイッター、ニコニコ動画などのサービスを「メディア」とは呼ばずに、「ソーシャルウエア」と捉え、そのアーキテクチャー(建築学でいう建築様式)に注目する。濱野は1980年生まれ、まさにデジタルネイティブに属する世代の論客である。
彼がソーシャルウエアの内容分析より、アーキテクチャーに注目するねらいは、アーキテクチャーの社会的効果にある。アメリカの憲法学者、ローレンス・レッシグがその著『コード』(4)で上げた、私たちの行動を規制する4つの要因、「法、規範、アーキテクチャー、市場」の一つであるコード=アーキテクチャーについて、レッシグはこう言っている。「法や規範、市場は、人間の判断によってチェックされる制約で、だれか人間やグループがそうしようと決めたときにだけ効力を持つ。でもアーキテクチャーの制約は、いったん動き出したら、だれかがそれを止めるまで効力を持ち続ける」、「つまりアーキテクチャーの制約は、その対象者がその存在を知ろうと知るまいと機能する」。
お分かりだろうか。著者は、すっかりばらばらになっている個人をソーシャルウエアのアーキテクチャーが管理することに、むしろ積極的な意義を認めている。管理されていることを自覚させないで管理し、それで社会がうまく回るならそれでいいじゃないか、というわけである。この本では、「世間」をめぐる日本の特殊性もアーキテクチャーの日本的ズレとして捉えられており、これはこれでたいへん興味深い分析だが、ここでー詳しく触れる余裕はない。
アーキテクチャーによる管理という発想について付言しておこう。哲学者の東浩紀によれば、共通の価値観がなくなった現代社会では、かつてのような「ひとりひとりの内面に規範=規律を植えつける」形で管理するやり方(規律訓練型権力)は有効に働かない。だから「人の行動を物理的に制限する」(環境管理型権力)しかない。濱野はこの考えのもとに、環境管理型権力としてのアーキテクチャーの効果を肯定的に捉えている。
現代社会の断面を鋭く抉っていると言えるけれど、このような社会の現状、あるいは将来は、たしかに快適かもしれないが、そして、ある程度不可避かもしれないが、決して豊かなものではないと私には思われる。サイバーリテラシーにとって考えなくてはならない問題は多い。
(1)宮台真司『日本の難点』(幻冬舎新書、2009)
(2)アンソニー・ギデンズ『社会学第5版』(松尾精文他訳、而立書房、原著2006)
(3)濱野智史『アーキテクチャの生態系』(NTT出版、2008)
(4)ローレンス・レッシグ『コード』(山形浩生他訳、翔泳社、原著1999)
投稿者: Naoaki Yano | 2010年04月03日 17:45