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2010年12月02日

検察官によるFDデータ改ざん(10/11)

 大阪地検特捜部の検事が証拠書類を改ざんしていた事件は、朝日新聞の会心のスクープで明るみに出たが、ポイントはフロッピーデスクである。私たちがすっかりなれ親しんでいる電子メディアのあり方を改めて考えさせられる。

電子メディアが失わせる?倫理的「ため」

 事件は村木厚子厚生労働省元局長が無罪になった郵便不正事件を舞台に起こった。捜査にあたった前田恒彦主任検事が、想定していた事件の筋書きに具合が悪いデータを、先に逮捕した上村勉同省元係長の自宅から押収したフロッピーデスクの中に見つけた。

 フロッピーデスクにあった偽の証明書の作成日時は2004年6月1日だったが、これは同年6月上旬に村木局長が上村係長に証明書を作成するように命じたという筋書きには合わなかった。そのため、前田検事は今年7月に日付を6月8日に書き換えた。

 事件の見立てと証拠が食い違えば筋書きの方を再検討するのが当たり前なのに、逆に証拠の方を書き換えたわけである。前田検事はそのフロッピーデスクを証拠書類として法廷には提出せず、ほどなく上村被告側に返還した。

 なぜこのようなことをしたかについて前田検事は「書き替えておけば、被告側に不利なデータだから、証拠として法廷に提出することはしないだろう」と考えたという。朝日新聞の最初の報道で、彼が同僚に「時限爆弾を仕掛けた」と話した、というのはそういう意味らしい。
 
 検察官が不利な証拠を改ざんしてまで村木氏を有罪にしようとしたこと自体、権力の恐ろしさを感じさせるが、前田検事の知らないところで、証明書が6月1日に作成されたことを示す捜査報告書が法廷に提出されており、図らずも検事の陰謀が明るみに出た。天網恢恢疎にして漏らさず、ということか。捜査のあり方や上司が改ざん事実を過失として内々に処理しようとしたらしい検察の体質については深入りせず、ここでは話題をフロッピーデスクという電子メディアに絞ることにしよう。

プロパティの改ざん

 あなたがワープロで文書を書き、役所か企業に提出するまでに何度も書き換えたとすると、その文書の「プロパティ」に作成日時、更新日時、アクセス日時などが表示される。いつ作成されたか、最後にいつ閲覧したかが記録されるわけである。
 
 この作成日時を専用ソフトを使って書き換えた。朝日新聞記者はデータ改ざん情報を聞きつけたとき、フロッピーデスクを上村被告の弁護人から借り受けて、コンピュータ専門家に鑑定を依頼した。その結果、文書の作成日時が厚労省以外のパソコンを使って書き換えられたことを確認、記事にした。
 
 私たちはふつう文書のプロパティを書き換えたりしないが、たとえばソフト開発者などが作成日時をきりのいい日に書き換えて出荷したりする。専用ソフトを使えば書き換え自体は難しいことではない。
 
 前田検事のねらいは、一般人がそこに疑問を感じることはまずないだろう、ということだったと推察される。たとえば押収した紙の書類のデータを、工作の痕をまったく残さずに書き換えるのは難しい。電子メディアでは加工が自由自在で、しかも加工された痕跡もまたふつうには残らない。紙の集合写真の中のある人物を跡形もなく消すことは難しいが(強引にやられなかったわけではない)、電子メディアではこれが簡単にできる。だから電子メディアを証拠物件にするときには紙以上の慎重さが求められるが、今回は、証拠として提出されないデータを書き換えたところが味噌だった。紙の捜査報告書が法廷に提出されていなければ、あるいは彼の思惑通りに運んだかもしれない。

情報倫理の課題

 結論的に言えば、フロッピーデスクという電子メディアだったからこそ、前田検事は改ざんに手を染めた可能性が強いということである。証拠資料の扱いには慎重でなくてはいけないし、事実を重んじなければいけないという捜査の鉄則、あるいは検察官の職業倫理が電子メディアによって薄められていく面があることに注意したい。
 
 同じころNHK記者が相撲協会への家宅捜索情報をケータイ・メールで当の相撲協会関係者に教えるという事件があった。メールには「他言無用でお願いします。NHKから聞いたことがばれたら大変なことになりますから」と書いてあったらしい。自分でも危険な情報だと知りながら、それを証拠が残るケータイ・メールで送るというのがまず理解に苦しむが、ケータイ・メールだからこそ安易に一線を越えてしまったという側面もありそうである。たとえば手紙なら、書いてから投函するまでの間に思いなおす余地がある。

 こういう例を考えてみよう。子どもが本屋の店頭でアダルト本を見るのは、やはり抵抗がある。周囲の目が気になるし、店主にとがめられるかもしれない。昔なら、回りの大人が注意しただろう。だから、見ようとして見られないわけではないけれど、どうも見づらい。だから、たいていの子どもは見ないわけである。店によってはコーナーをはっきり区別しているところもあるし、もちろん買おうとすると、店主にとがめられるかもしれない。こうして一定の秩序(倫理)が保たれる。
 
 しかし、ウエブ上ではそういうしがらみがない。アダルトサイトには、18歳以上と以下を選択する段階を設けているものが多いが、ただのクリック1回の差である。これでアダルトサイトから未成年者を排除する歯止めをかけることは難しい。
 
 このように現実世界とサイバー空間の違いは大きい。これは紙のメディアと電子メディアの違いにも通じる。電子メディアが倫理の歯止めを失わせがちだということ、IT社会においては、倫理的な心の「ため」が失われがちだということ、これが「情報倫理」の大きなテーマである。

投稿者: Naoaki Yano | 2010年12月02日 13:39

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