日本人に突きつけられた戦後最大の試練(2011/4)
マグネチュード9.0の地震、ついで襲った大津波。戦後最大規模の自然災害に、人災とも言うべき東京電力福島第一原子力発電所の大事故が重なった。これは日本人に突きつけられたまさに戦後最大の試練である。
私は地震そのものを体験しなかった。地震が起こったのは2011年3月11日午後2時46分。イタリアから帰国する飛行機で成田上空にさしかかったころである。日本を大きな地震が襲ったらしいとの機内アナウンスがあったが、地上管制塔との交信も途絶えがちで、機長によれば「予想以上の事態らしい」とのことだった。飛行機はしばらく上空を旋回したあと、機長の判断で早々と函館に向かった。給油したあと成田か羽田に戻る予定だったが、両空港への許可は下りず、結局午後8時半、函館でいったん機内に出て一泊することになった。
機内では乗客がケータイでニュースを見たり、メールしたり、電話したりしており、しだいに大事故の一端が明らかになってきた。私もケータイで事故のニュースに接した。神奈川県内に住む娘とはケータイがつながらなかった。息子は応答に出たが、「いま香港にいる。日本の情報はツイッターが一番早い」と答えた。東京で被災した彼の妻は、飯田橋から東京駅に向かい、さらに藤沢市まで歩いている途中だとのことだった。九州の友人からの電話もつながった。遠方だけが通じたわけである。
宿に着いて見たテレビの映像は、悲惨きわまるものだった。
翌午後1時すぎ同じ飛行機で成田に向かい、午後3時に到着。開通し始めた総武線快速で東京まで出て、東京からこれも開通したばかりの東海道線に乗って大船に着いた。迎えに来てくれた娘の車で自宅に戻った。
パーソナルメディアの活躍
それから1週間は災害を報じるテレビやインターネットに釘つけ状態だった。津波のすさまじい破壊力と被災地の惨状には驚くばかりである。一方で、ときどき襲う余震に、今度は関東かとおびえたりもした。地震発生から10日たった3月21日現在でも、行方不明者の数がなお1万人を超えるという。まさに戦後最大の自然災害である。
その中で多くの人が身近な情報ツールを有効に使い、自分たちや被災者の安否情報確認に役立てていた。
21日のNHKテレビ(「クローズアップ現代」)によれば、宮城県多賀城市の市役所職員、Aさんは、本人も被災したが、当時たまたま実家の石巻市に戻っていた奥さんと子ども2人の消息がわからなかった。それが無事と判明した経緯には心あたたまるものがある。
関東在住の青年が、石巻市の避難先の小学校で両親の無事を確認した。そのとき避難所に張り出されている安否情報を見て、「この情報をほしがっている人が他にもいるのではないか」と、避難者の名前をケータイカメラで撮って、インターネットの掲示板に上げた。それを見たやはり関東の若者が、名前を検索できるように活字にして打ち込み、再び掲示板にアップした。それを見たAさんの知人が「家族は無事らしいよ」とメールで知らせた。家族の無事を確認できたAさんは「そのときはさすがに涙が出た」と話していた。多賀城市と石巻市の間は数十キロ。しかし、Aさんが家族の避難先を探しあてることは不可能だったろう。若者のちょっとした善意のおかげでかけがえのない情報が伝わった。
雑誌『週刊ポスト』4月1日号で、ジャーナリストの佐々木俊尚がこういう話を紹介している。広島の中学生が、被災者のためにとNHKの放送画面をビデオカメラにとって動画配信サイトのUSTREAMで流したところ、NHKの広報担当者がツイッターで「停電のためテレビがご覧になれない地域があります。人命にかかわることですから、少しでも情報が届く手段があるのでしたら、活用していただきたく存じます」と容認した。「ただ、これは私の独断ですので、あとで責任をとるつもりです」という但し書きつきだった。その後、NHKとフジテレビは公式に配信を始めたという。
CNNが報じたところによると、宮城県南三陸町出身のカリフォルニア大学生B子さんは、地震直後に中学校の避難所にいる妹から無事のメールを受け取ったが、薬局を営む両親や姉の消息は3日間わからなかった。日本の友人からの電話で、「テレビにあなたの家族らしい一家が映っていた」との連絡を受け、インターネットでさまざまに検索、ついにその映像がユーチューブにアップされていることを見つけた。そこには、丘の上でほとんど破壊された家の2階バルコニーに「○○家」の紙を掲げた家が映し出され、ヘリで近づいた報道陣に姉が「カリフォルニアにいる妹に無事だと知らせてくれ」としゃべる声も収録されていた。B子さんのインタビュー映像もユーチューブで流されている。
希望の光を見る思い
今回の地震では、ケータイ、ツイッター、ユーチューブ、SNSなど、多くのパーソナルメディアを通じて、さまざまなドラマが繰り広げられた。報道陣や地方自治体、防災関係者もツイッターを大いに活用したようである。
これらのツールが無責任なデマを拡散させた例もあるが、それを中和する動きも見られた。また原発事故に対する東京電力や政府の対応のまずさへの批判、原発の危険な現状について、あるいは日本からの脱出を進める各国の動きについて、マスメディアではよく伝えられなかった事実が、各種のメーリングリスト、ブログ、ユーチューブなどを通して多くの国民の間に浸透した。「総メディア社会」におけるマスメディアとパーソナルメディアの垣根が取り払われているのが象徴的である。
被災した人びとが懸命に、前向きに生きようとする姿は、多くの国の人びとに強い感銘を与えたが、さまざまな救援活動に取り組んだ人びとの小さな活動や、その後の精力的なボランティア活動には希望の光を見る思いがする。
イタリアでは、紀元1世紀の昔、ベスビオ火山の噴火で埋没したポンペイの遺跡も見た。今でも街の全貌がうかがわれる石造りの頑丈さには目を見張らされたが、被災した東北の町々が新しい装いのもとに復活することを強く願わざるにはいられない。
投稿者: Naoaki Yano | 2011年05月13日 23:48