ソーシャルメディア⑥安易なつぶやきが他人と自分を脅かす(2011/11)
ツイッターの安易なつぶやきで他人のプライバシーがまき散らされ、そのことでメッセージを書いた当の本人も社会的制裁を受けるという、愚かともいたましいとも言える事件が2011年になって相次いだ。ソーシャルメディアの利用もまた低年齢化しつつある今、IT社会における初歩的な「リテラシー」教育がいよいよ不可欠になってきた。
相次いだ3つの事件
まず事件の概要である。
1月、都内のホテルのレストランでアルバイトをしていた女子大生が、来店した有名人の男女の名前やその行動をツイッターに書き込んだ。「○○と△△がご来店 △△まじ顔ちっちゃくて可愛かった……今夜は2人で泊まるらしいよ」(実際は実名)。
これがネット上で非難され、店名は特定され、女子大生の名前など個人情報も明かされた。ホテルは2人に謝罪し、女子大生は店をやめた。
5月、スポーツ用品大手銀座店の20歳代の女性社員が、訪れた客のJリーグ選手とその夫人を見かけ、ツイッターで2人を中傷するような書き込みをした。これがやはりネット上で話題になり、店はサイト上に「同選手、ご家族をはじめ関係者の皆様およびお客様に多大なるご迷惑とご心配をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます」との謝罪文を掲載した。女性社員は4月に新卒で採用されたが、実名も割り出されてしまい、まもなく退社した。わずか140文字のメッセージで就職したばかりの会社を棒にふったわけである。
7月、ワールドカップで優勝した女子サッカー、なでしこジャパンのK選手が飲み会で発言した内容を、参加していた大学生がツイッターで中継した。K選手はなでしこジャパンや監督の裏話もしていたらしく、学生らが金メダルをかじっている写真も紹介された。これが騒ぎになったため、K選手は釈明とおわびの会見をした。学生の通う大学も「Kさんをはじめ関係方面にご迷惑をかけたことを、大学として深くお詫び申し上げます」と陳謝している。
公私の区別の感覚がない
若者たちはなぜ身近で起こっている出来事を、何の考えもなく公共の場に引き出してしまうのだろうか。どう考えても、彼らには周りの私的空間とインターネットでつながる公共空間との区別がなく、両者がストレートにつながっている。若者たちは、「特定のユーザーに向けてはいないが、誰かの反応を期待して」とか、「誰に聞いてもらうつもりもなく、純粋に独り言として」ツイッターでつぶやいている(1)。
3つの事件に共通するのは、これまでの重層的な社会構造を簡単につき破ってしまう新しい道具に対する警戒や、使い方への配慮の欠如である。メッセージを発信した若者たちはいずれもその後は無言で、謝罪したのはホテルであり、スポーツ店であり、発言を報じられたサッカー選手であり、学生が在籍していた大学だった(当事者たちは社会的制裁を受けたとも言えるが、反省しているのかどうかははっきりしない)。
ソーシャルメディアの普及でだれもが簡単に情報発信できるようになった時代のリテラシーがいよいよ不可欠になっている。
たとえば、夜道を歩いていて、若い女性が数人の男たちに囲まれている現場を目撃した時、持っているケータイで警察に通報するなり、ツイッターでつぶやいたりすれば、それはあるいは“美談”になるかもしれない。実際、以前紹介したように(本年1月号)、故人が最後に出かけた旅行で写真に収めた公園の場所を知りたいと家人がツイッターを通じて呼びかけたら、延べ1000人もの人がそれに応えて、1日にしてその場所が突き止められたというほほえましい話題もあった。それはまさに「ツイッターの勝利」でもあった。
使うべきか、使わざるべきか
今回のメッセージが井戸端会議でしゃべられている分には、伝わる範囲も限られているし、しゃべった内容はすぐ忘れられるが、ツイッターのつぶやきが流れるサイバー空間はどこまでもつながっているし、情報はいつまでも記録される。
現実世界においては、空間はそれなりに制約をもち、情報は遠方には伝わらないから、「人のうわさは七十五日」たてば忘れられたし、「旅の恥はかきすて」でもよかった。しかしサイバー空間には制約がないし、サイバー空間は忘れない。しかも、情報発信した「個」は即座に突き止められる。
ツイッターは便利な道具だが、この場合は使っていい、ここでは使うべきではないという判断を瞬時に行うためには、ふだんからの心構えが不可欠である。道具の使用を法で規制したり、使用する際のルールを定めたりといった方法もないではないが、その瞬間において、使うべきか、使わざるべきかを判断するためには、IT社会のシステムへの理解と内面化された倫理の確立が必要である。それはどちらかというと、無意識で判断する能力である。その自律的精神がIT社会を豊かで安定したものにしていくのだと思われる。その能力が私の提唱するサイバーリテラシーであり、それにもとづいた情報倫理である。
子どもたちがツイッターを利用するようになることを考えただけで、その重要性がわかるのではないだろうか。サイバー大学では、今年から「サイバーリテラシー概論」を全学共通必修科目に採用してくれたが、受講生の多くがその意義を認め、むしろもっと早くからこのような教育をすべきだと、たとえば「サイバーリテラシーはITを学ぶ者だけが学ぶのではなく、義務教育の一環として学ぶ必要がある。人間としての魂を持つような仕組みづくりとしての幼児~児童教育が重要なのではないか」、「自由な空間を生かすも殺すも自分次第。基本的には、人に迷惑をかけないこと、自分に降りかかるかもしれない不利益には自らが予め対処しておくこと、人はそれぞれであり、皆違っていいんだということを理解することが必要だと思う」などと感想を述べてくれている。
<注>
(1)アスキー総合研究所の調査(2009年暮れ実施)。
投稿者: Naoaki Yano | 2011年11月28日 14:02