「世界観」と「処世訓」
東日本大震災のときも転載した情報システム学会のコラム「システムの肥大と人間の想像力」最終回(第9回)は、サイバーリテラシーと情報倫理についての最新の論考でもあり、同学会のご了解を得てここに転載しておきます。
なお、アップルのスティーブ・ジョブズ氏がCEOを退いた時点で、サイバー大学のウエブに書いたコラム「IT社会の将来を『幻視』する」もあわせてご覧いただければ幸甚です。日本の若者がvisionaryとして世界に飛躍することを期待しています。
サイバーリテラシーと情報倫理
長い間、「大人の道具」と「子どものおもちゃ」は別物で、子どものおもちゃは大人の道具の模造品だった。女の子のままごと、男の子のちゃんばらごっこ、みなそうで、子どもは大人の社会に入っていく訓練として、いわばそれらの遊びをしていたと言えるが、最近になって、「大人の道具」と「子どものおもちゃ」の境界は渾然としてきた。
私の記憶によれば、
<1>ビジネスツールのポケベルを、女子高生などが数字を言葉に読み替えてコミュニケーションツールとして使うようになった。
<2>ファミコンは子ども用のおもちゃとして売り出されたが、大人もけっこうおもしろがって遊んだ。
<3>大がかりなアーケードゲームと、たとえば日航のフライトシミュレーターがよく似たものになってきた。
などの現象があった。
コンピュータ技術の発達がそれを使った機器の高機能化、小型化、低価格化を促し、従来にないやり方で世の中を変えた結果、大人の道具と子どものおもちゃの垣根も取り払われた。ケータイになって大人の道具=子どものおもちゃになった、と言うよりすべての道具が万人共通のものになった。その完成形がスマートフォンと言えるかもしれない。大人が使う場合と、子どもの場合は、ソフトウエア的に機能が異なることがあっても、機器そのものはほとんど同じで、操作はほとんどボタン一つ。操作ということでは、子どもの習熟度の方が高い。
大人と子どもの世界の境界がぼやけたということでもあるだろう。だからこそ、これまでの大人から子どもへの伝統や知識の伝達が、デジタルネイティブ(子ども)からデジタルイミグラント(大人)へといったかたちで、一部では完全に逆流してしまう。
大人の社会においても、技術の民生用と軍事用といったジャンルによる区別はなくなり、ヒエラルキー構造は崩れ、ネットワークの威力が増すなど、既存秩序そのものが大きく変容している。
連載中にふれたけれど、「社会の包摂性」とか「再帰的社会」、あるいは「リスク社会」といった現代社会の傾向が、ITによって急激に、しかも広範囲に促進されていることは明らかである。リスク社会の恐ろしさを、私たちは3.11大震災による福島第一原子力発電所の事故によって強烈に思い知らされた。
現代IT社会においては、「個」と「社会」の関係もきわめて硬直化している。社会学者、宮台真司の表現を借りれば、<システム>の全域化によって<生活世界>が空洞化している。「個人は全くの剥き出しで<システム>に晒される」ようになり、「『善意&自発性』優位のコミュニケーション領域から『役割&マニュアル』優位のコミュニケーション領域へと」押し出されている(1)。
2008年の秋葉原大量殺傷事件の際よく言われたように、かつては不況になれば帰るべき田舎(故郷)や家があったが、現代の農家はすでに余計な人間を包み込む能力をなくしているし、両親が離婚して帰るべき家がない若者も多い。原発事故では、多くの人が故郷そのものを失った。原発に賛成してきたにしろ、反対してきたにしろ、事故が起これば平等に放射能にさらされるのである。
リバタリアニズム(自由至上主義)か、コミュニタリアニズム(共同体主義)かといった論争が一時さかんだったけれど、現代IT社会においては、個人の生き方がそのままシステムに跳ね返るから、個人の生き方と社会の秩序はすでに不可分に結びついている。
大袈裟に言えば、サイバーリテラシーは、現代IT社会の構造を明らかにしようとする一つの「世界観」である。「サイバーリテラシー3原則」や「総メディア社会」はその見取り図であり、以前に紹介した「サイバー空間と現実世界の交流史(交流図)」は、それを主として時系列で見ようとする試みだった。「グーグルからフェイスブックへ」という表現を使い、そこに現実世界の復権を見ようともしてきた。
そして情報倫理は、この社会をどう生きるかを示す「処世訓」と言っていいかもしれない(2)。ここに、法やルールとは違う情報倫理の役割がある。現代においては、強制力をもった法や自発的なルールを整備する前に、これまでの常識を覆すような事態が起こる。人工知能の「フレーム問題」(あらかじめ「グラスを持っても、人間は死なない」といった自明なことを記述せざるを得ないという難題)ではないが、激動するIT社会のあらゆる行動基準を法やルールで定めることは不可能である。
大岡昇平「野火」で、左手が右手の動きを思わず止めたような行動は、自律的な心の作用=倫理によって担われるしかない。しかもIT社会で新たに生起する問題は、これまでの伝統的倫理ではとっさに対応できない。そこに生ずる「指針の空白」を埋めようとするのが情報倫理である。
現実世界とはまるで違う原理に基づくサイバー空間の登場で、これまで合理的だったり、有益だったりした生き方が変容を迫られている。古くからの伝統的倫理の多くはIT社会でもそのまま受け継がれるべきだが、それがいま急速にかつ大々的に失われ、一方で、サイバー空間のもつ特性がこれまでとは違う生き方を私たちに要請している。だからこそ現実世界とはまるで違うサイバー空間の特性を理解したうえで、これからの私たちの生き方を抜本的に考え直す情報倫理、「情報のデジタル化が引き起こす問題に有効に対応するための倫理」が必要だと思われる。
法とルールの役割が重要なのはもちろんである。現に不正アクセス防止法、個人情報保護法、電子署名法などの法整備が行われているし、各種の団体や組織が自発的なルール(倫理綱領など)を定め、それぞれ効果を上げている。情報倫理は単独で機能するばかりでなく、法やルールを支えるものとしても重要である。
サイバー空間(およびそれと密接に結びついた現実世界)はシームレスにつながっている。そこでは大人と子どもの区別すらもあいまいになっており、大人が築き上げた伝統を子どもに教えるといった時間的余裕も、すでにない。大人も子どもも同時に荒波に立ち向かわなくてはならない。先にも引用した応用倫理学の泰斗、加藤尚武は「自分で判断するときに、どうすればいいかという意思決定の予行演習(決議論)が倫理学の本質」(3)だと述べている。
これからの処世訓(処方箋)を練り上げ、社会的合意にまで高めることが情報倫理の目的である。そして情報倫理教育は、なるべく早期に、しかも幼少期から実施すべきだと思われる。
<注>
(1)宮台真司『日本の難点』(幻冬舎新書、2009年、P35)
(2)井上ひさしの遺作となった小説『一週間』(2010年、新潮社)に「われわれ人間が生きて行くためには、世界がどんなふうにできているかという世界観と、世界がそんなふうにできているならこう生きようという処世訓が必要」(P338)とのくだりがある。思わず膝を打って、この比喩を借用した。
(3)加藤尚武『応用倫理学のすすめ』(丸善ライブラリー、1994年、あとがき)
投稿者: Naoaki Yano | 2011年11月28日 14:08