インターネットというメディア(2012/4)
前回、グーグルが強力な検索能力でさまざまな個人情報を収集、それを統一的に処理するためにプライバシーポリシーを変更したことを取り上げた。インターネットの強力な情報収集能力が私たちの思考や感性に与える影響を、そろそろ真剣に考えた方がよさそうである。
例によって最近のエピソードから。
ある日、フェイスブックの私のページに次のようなメッセージが届いた。「友人の某氏(実名)があなたといっしょに某大学(実名)に通っていたと言っています。この記述を承認しますか」。
プロフィールを自動作成
友人というのは、都内某大学のかつての教え子である。元の文章は確認していないけれど、おそらく彼は何らかの形で私にふれて、「大学でいっしょだったことがある」と書いたらしい。たしかにその通りなので「承認」のボタンをクリックすると、フェイスブックはたちどころに「この事実をあなたのプロフィールに追加します」と言って、プロフィール欄で空白にしてあった私の出身大学を某大学と決めてしまった。
友人の「いっしょに通っていた」という表現をめざとく見つけて(検索して)、プロフィールの不備(?)を埋めたわけである。恐るべき力わざでもあるし、なるほどこういうふうにして誤った情報がインターネット上に蓄積されていくのかとも思う。
ちなみに、この誤った記述を正す(訂正する)のがけっこう大変だった。間違った記述を正すのは簡単なのだが、この欄を元の空白にするやり方がわからない。プロフィール入力欄の右側に×印があり、ここをクリックすればいいのだと気づくまでには一週間ぐらいかかった。システムは仕様をいじられるのが嫌いだし、データベースは項目すべてを埋めたいという衝動をもっている。他のウエブでも、削除とか拒否とかいうボタンは見えにくく設定されていることが多い。
自動的にカスタマイズ
アイパッド(およびアイフォン)にすぐれもののアプリケーションがある。自分で、しかも自動的に記事を編集できるオンラインマガジン、ザイト(Zite)である。
これまでも興味深い記事を取捨選択してカスタマイズできるサイトはあったし、ニュースリーダーなどのソフトを使えば、興味のあるサイトだけを選択して読めたが、ザイトはなかなか画期的である。
ソフトをインストールして(無料)、テクノロジー、世界のニュース、政治、芸術と文化、ビジネス、スポーツ、音楽、ゲーム、料理、哲学、写真、プログラム、財テク、ワイン、料理、ペットなどのジャンルから好みのものを選択すると、ジャンルごとにオンライン上の情報が、写真とともにきれいに編集されて提示される。選んだジャンルは右側に「セクション」として表示され、これはいつでもカスタマイズ可能である。
3月22日の私の「ザイト」で「ソーシャルメディア」のページを開くと、冒頭にフェイスブックが友だちのランク付けをする仕組みを導入したという記事が出ている。右側に「パーソナライゼーション」の欄があり、「この記事は興味深かったか」と聞いてくるので「イエス」と答える。もちろん「ノー」と答えてもいい。その下に、ニュースの出典であるサイトや筆者、さらにはテーマであるフェイスブックについて、もっと情報がほしいかを尋ねるボタンがある。そこをクリックすると、もっと読みたいという意思表示になって、次回からのザイトに私の好みが反映される。
要するに、記事を読んだ感想が次回のアクセスで自動的に再構成されていく。こうして私のザイトは私だけのオンラインマガジンになり、主催者が言うように「世界に二つと同じザイトはない」。
さらに、ツイッターやグーグルニュースリーダーのアカウントを登録することで、それらを使って私がやり取りした内容もまたザイト編集にリンクされる。読み終えた記事に関する感想をツイッターやフェイスブック、メールなどで友人とシェアすることも可能である。
快適な自動編集システムが与える影響
私たちはすでにこのような、ある意味で快適、ある意味で恐ろしいメディアに囲まれている。いよいよ威力を発揮してきたインターネットというメディアは、私たちの考えや感性をどのように変えていくのか。このことをあらためて考えておいた方がいい。
インターネットによって私たちは大きく変わるだろう、ということである。メディアの預言者、マーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」という警句でこのことを強調した。メディアで伝えられる内容ではなく、メディアの形式そのものがより大きなメッセージを私たちに投げかけている、と言ったわけである。彼はラジオとテレビを比較することでそのことを説明したが、インターネットというメディアにこそよく該当するようである。
メディアの形式は、メディアを作りあげているアーキテクチャー(仕様)と言ってもいい。先の例でいえば、プロフィール欄をできるだけ埋めようとするのも一つのアーキテクチャーである。そこでは「空白を空白のままで残しておこう」という私の希望は受け入れられにくい(拒否する仕組みも組み込まれているのだけれど、それを行使しにくくなっている)。
スタンフォード大学の憲法学者、ローレンス・レッシグが言うように、このアーキテクチャーによる行動の規制は見えにくい。知らず知らずのうちに私たちの行動を規制し、しかも規制されていることを私たちに気づかせない。明文化されている法やルールは、規制されていることが私たちにもわかるが、アーキテクチャーの力は、知らないうちに私たちを規制する。
ここがアーキテクチャーのもつ便利さでもあり、危ういところでもある。アーキテクチャーこそが、メディアがメッセージであることの原動力とも言えるだろう。
投稿者: Naoaki Yano | 2012年05月12日 20:24