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2013年03月03日

「民主主義と文化を支える」メディアと軽減税率(2013年/2)

 日本新聞協会は1月15日、「多様な知識を得る手段である新聞をより少ない負担で購読できる環境の維持は、民主主義と文化の健全な発展に不可欠」だとして、新聞に消費税の軽減税率を適用するよう求める声明を公表した。あわせて「国民に知識、教養を普及する役割を果たしている書籍、雑誌、電子媒体についても」軽減税率を適用するのが望ましい、としている。

 消費税は14年4月から8%に引き上げられる予定だが、安倍政権はその際、食料品など生活必需品の税率を低くする軽減税率の導入を見送る方針を決めている(低所得者対策としては現金供与を考えているという)。税率が10%になる15年10月の段階で導入するかどうかあらためて検討するとしているが、新聞協会の声明は、「民主主義と文化の健全な発展に不可欠」な新聞にも軽減税率を適用することを求めたものである。

紙メディアの苦境

 インターネットという自己発信型メディアの普及で、既存マスメディア、とくに紙の媒体は苦境に追い込まれている。
 
 新聞の場合、若者の活字離れの影響をもろに受けて、2012年の総発行部数は4780万部(日本新聞協会調べ)。年々微減傾向を続け、ピークだった1997年の5377万部の89%に落ち込んだ。しかも、多くの新聞社は1992年に値上げして以来(97年に消費税の3%から5%への税率アップに連動してその分だけ値上げ)、値上げできないでいる。新聞代はほぼ20年間据え置かれてきたわけである。新聞をとらない世帯も増えている。
 
 広告の落ち込みもひどい。電通調査によれば、2011年の新聞広告費は5990億円である。これもピークの2000年の1兆2474億円に比べると48%にまで減っている(広告に関して言えば、すでにテレビ以外のラジオ、雑誌、新聞はインターネット広告に追い抜かれた。テレビ広告費も微減傾向にある)。
 
 こういう青息吐息の状況を勘案すると、今回の軽減税率適用の要請からは業界の悲鳴が聞こえてくる。一方で、これで果たして世間一般の理解を得られるかどうかは、きわめて疑問である。
 
 同じような主張は再販売価格維持制度をめぐる議論のときも展開された。

 新聞や本の全国一律定価を可能にしているのが、再販売価格維持制度(再販制)である。商品の価格はふつう買い手と売り手の間で決まり、メーカーが末端価格を決めると独占禁止法違反になる。ところが本や新聞などの著作物の場合、この独占禁止法の例外としてメーカー(出版社や新聞社)が末端価格を決めている。正確に言うと、小売店の勝手な値決めに対してメーカーがペナルティを課しても罰せられず、実質的に定価が守られる仕組みである。

 この再販制は戦後の独占禁止法改正の過程で導入された。一時は生活必需品の価格安定のためにワイシャツ、医薬品、石鹸、化粧品など9品目が再販商品に指定されていたが、しだいに解除され、1997にはすべて解除された。現在は書籍・雑誌・新聞・レコードなど6品目が著作物再販として維持されている。

従来の主張を繰り返す

 新聞社や出版社は、これらの商品は文化に深くかかわり、再販制廃止は情報の一極集中を加速し、地方文化の荒廃につながるとして、その維持を強く働きかけてきた(公正取引委員会は「再販制度は競争にマイナスの影響を与えるので原則違法」との観点から見直し作業を進めたが、2001年に「当面は存置することが相当」との結論を出している)。
 
 今回の新聞業界の主張は、これとそっくり同じである。
 
 新聞にしろ、書籍にしろ、そして放送も含めて、それぞれのメディアは、民主主義社会の維持発展のために不可欠の「表現の自由」を享有する主体として、これまでの発展段階において、あるときは自ら戦い、あるときは社会の理解を得て、何らかの社会的優遇措置を受けてきた。それは社会の「ジャーナリズム」機能を維持するための制度的保障でもあった。
 
 放送は放送法、電波法などで規制を受けると同時に、ある程度の独占営業を認められてきたし、新聞は法的に何の規制も受けず、一方で、郵便法の第三種料金指定や公職選挙法の選挙報道の自由などで特別措置がとられてきた。それらのメディアは「民主主義と文化の健全な発展に不可欠」という社会的合意もあったのである。

メディアと「表現の自由」

 インターネットの発達で万人が「表現の自由」を行使する機会を得たいま、理念的にも、実体的にも、マスメディアだけが表現の自由の担い手だということはできない。メディアはすべて平等である。

 しかし、ここが大事なところだが、「表現の自由」が個人に還元されたからといって、公権力の行き過ぎをチェックするといった、現に報道機関が果たしている取材活動を、国民一人一人が担うわけにいかないのも確かである。万人に権利が与えられたことが、かえって権利の拡散、ひいては喪失になってしまえば元も子もない。

 インターネットを流れる情報は、それこそ千差万別で、名誉毀損、他人に対する誹謗中傷、わいせつ、違法情報、さらには基本的マナーに欠ける言葉のやりとりなど、「表現の自由」の理念から見ると、足を引っ張るというか、それこそ公権力の介入を呼び込みそうなものも少なくない。

 このようなメディア状況の中で、社会全体のジャーナリズム機能を維持発展させるためにはどうすればいいのか。それはマスメディアだけの問題ではなく、デジタル情報社会のすべての人に関わる大きな問題である(2007年、総務省は「通信・放送の総合的な法体系に関する」報告書(情報通信法の構想)でこの問題を取り上げたが、その後、沙汰止みになっている)。

 いずれにしろ、そういった大状況に目を向けずに自らの立場のみ強調しているところに、今回の声明の物足りなさがあると言えるだろう。

投稿者: Naoaki Yano | 2013年03月03日 17:06

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