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2013年11月07日

SNSでの「不適切」画像アップと若者たち(2013年10)

 今夏の奇妙な話題は、コンビニのアイスクリームボックスに寝転んだり、店のパイ生地を顔に張りつけたりしている写真をフェイスブックやツイッターにアップする行為が若者の間で全国的に“伝染”したことである。当該店は閉店に追い込まれたり、当の本人も店を解雇されたり、「たわいないいたずら」とすまされない被害が出ている。

 そのいくつかを紹介しておこう。

 7月14日、「ローソンのアイス冷凍庫に入ってみた」というタイトルで、冷凍ケースのアイスクリームの上に寝そべっている写真がアップされた。高知市のローソン経営者の息子らしく、「汚い」、「そんな店のアイスなんか買わない」といった苦情も殺到、ローソンは謝罪すると同時に、当該店との契約を打ち切り、店は休業に追い込まれた。

 8月5日、東京・足立区のステーキレストラン、ブロンコビリーでアルバイト学生が冷凍庫に入って撮った写真をツイッターにアップ、店は謝罪すると同時に当該店を閉店にした。学生に損害賠償を請求することも検討しているという。

 同月12日、東京・高井戸のピザハットのアルバイト学生が店の制服を着たままピザ生地を顔に張りつけて、「ピザって息できないんだな」などとツイッターに書き込んだ。ピザハットは「食品を扱う立場として断じてあってはならない行為」と謝罪した。

 同月25日、北海道で「みんなでパトカーを荒らしてきたぜ」とツイッターにパトカーの上に乗った写真をアップした19歳の少年2人が逮捕された。

 同月30日、東京・渋谷の大学生が公園でズボンを下ろし、尻を水道の蛇口に当てている写真がツイッターにアップされていることが発覚、翌月2日に大学は「公共施設での不適切な行為」を謝罪した。

 ローソンの事件がきっかけになって以前の画像が“発掘”された例も含めて、ほかにも、果物をくわえているスーパーのアルバイト学生(横浜市)、アイスクリーム用冷凍庫に入った客(京都・向日市)、冷凍ソーセージを加えてウインクする女性従業員(大阪・門真市)、患者から摘出された臓器を撮影してツイッターに投稿した看護専門学校生(岐阜市、学生は退学)など同種の事件が相次いでいる。

 これらSNS上にアップされた画像はひとくくりに「不適切画像」と表現されているが、それ以前にも、ユニバーサルスタジオのアトラクションで「手首を折った」などのウソをアップした関西の大学生や、電車内で口を開けて眠っている男性客の空いた口を撮影して、ツイッターに「歯がありません」と投稿した女性などもいたという。

たわいないいたずらの大迷惑

 これらの行為には若気の至りというか、たわいのないいたずら的側面があるのは事実だが、やはりそこにはIT社会が強い影を落としている。彼らが撮った写真をその場でネットにアップできるツールを持っていなければ、ごく仲間内の悪ふざけに終わり、それなりのお灸を据えられるとしても、店や学校をやめさせられたり、損害倍賞を請求されたりということはなかっただろう。

 彼らは「おもしろ画像」を投稿して内輪で盛り上がりたい、という軽い気持ちでこれらの行為を行い、罪の意識はきわめて薄いようである。しかも、それらのいたずらを一般に公開すれば、店や大学に迷惑がかかるということへの配慮がまったくない。人生を生きていく上での基本的なモラルが欠如している。

 彼らに「冷蔵庫の中に土足で入るのは衛生上問題だから、入ってはいけません」、「店の信用が問われ、閉店することもあるから注意するように」、「インターネットで情報を発信すれば、仲間だけでなくすべての人の目にふれる。だから身元は特定され、自分が制裁を受けることもある」といったことをいちいち教えるべきなのだろうか。

社会の教育システムの崩壊

 インターネットが社会に突きつけた大きな影響が、既存ヒエラルキー秩序の崩壊だった。しかし、ヒエラルキー組織は一つの教育システムでもあった。家庭にはおっかない父親や祖父がいて家族を取り仕切っており、地域には顔役がおり、会社は強固な組織とともに独自の文化を作り上げていた。

 たとえば、商社も新聞社も、企業はそれぞれオリジナルなカラーを持っており、三菱商事は「組織」、丸紅は「人」と、重視する価値体系が違い、新入社員はそのカラーに染まることでいろんなことを学んだ。日本は一元的な「企業社会」であると、ときに揶揄されてきたが、つぶさに見ると、たくまずして多元的な価値観が育まれてきたとも言える。

 私は大学卒業後すぐ新聞社に就職したが、社内報のタイトルは『◯◯人』だった。ずいぶん事大主義的だが、我が社の記者は他社の記者とは違う矜持を持つべきだと叩きこまれ、入社4年後ぐらいに本社に上がったとき、デスク(次長)に「我が社は十年選手じゃないと一人前とは認めない」と言われたものである。これが新聞社に限らず、当時の社員教育だった。同じようなことは、地域でも、教育現場でも行われてきた。

 ヒエラルキー秩序が崩れつつあるのは時代の趨勢で、ある意味で歓迎すべきことでもあるが、そこで培われてきた価値観、あるいは教育システムもまた音を立てて崩れている。しかも、それに代わる社会的な教育システムはまるで確立していない。ツイッターの不適切画像アップの多くが大学生だということは、IT社会を生きていくための基本素養を彼らがどこでも教えられていないという証拠だろう。家庭でも、地域でも、小中学校でも、高校でも、大学でも、そして企業においても。

 ここに深刻な問題がある。既存ヒエラルキー秩序が崩壊していくとき、「これからは何でもありだ」とばかりに、私たちは若者教育への関心を放棄してきたと言えるし、年長者がIT社会へのリテラシーを持たず、したがって、それを教えることもできていない。「社会を束ねる力」でもあった新聞、雑誌、テレビなどマスメディアのジャーナリズム機能も、とみに衰えている。

投稿者: Naoaki Yano | 2013年11月07日 16:03

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