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2014年10月26日

朝日新聞大混乱―やせ細る「表現の自由」と社会の危うさ(2014/10)

 日本におけるジャーナリズムの雄として自他ともに許してきた朝日新聞は、数十年に及ぶ慰安婦報道の検証記事を公表した8月上旬から、木村伊量社長の9月中旬の謝罪記者会見まで、同紙史上空前の大混乱に陥った。一連の報道に疑問を呈してきた他の新聞、週刊誌、政財界によるバッシングはすさまじく、朝日新聞はまさに危急存亡の秋に立たされている。

史上空前の不祥事

 朝日新聞社に長年身を置いてきた人間としては、まことに断腸の思いである。慰安婦問題に関して言えば、たしかに8月5、6日の検証記事は中途半端で腰が引けていた。また一連の報道の経過には記者倫理の欠如が感じられる。吉田昌郎・福島第一原子力発電所長のいわゆる「吉田調書」報道は、記者能力の低下を批判されてもやむを得ないだろう。

 しかし私自身が一番衝撃を受けたのは、朝日新聞の編集トップが、「検証記事は不十分な(訂正が遅すぎた)うえ謝罪がないのはおかしい」と指摘したジャーナリスト、池上彰の連載コラム掲載をいったん〝拒否〟したことである。それ以前の『週刊文春』、『週刊新潮』の当該誌の広告掲載拒否も含めて、表現の自由を守るべき報道機関としてはまことに天に唾する行為である。

 ここでは、コラムのタイトル(注、「現代社会に潜むデジタルの『影』を追う」)に沿って、グローバル化、電子化とジャーナリズムに問題を絞って、今回の教訓を整理してみよう。

 私は2009年に『総メディア社会とジャーナリズム』(知泉書簡)という本を書き、新聞、出版、放送、通信(インターネット)の発達史をふりかえるとともに、マスメディア様式の解体と新たなメディアの創生について取り上げた。これからはオンライン上に「ジャーナリズム・プラットホーム」を築き上げるべきだとして、「新しいメディアに関して言えることは、インターネットが持つ潜在的可能性をうまく引き出した者が、未来の覇者になるだろう」とも書いている。しかしインターネットによるグローバル化、それがもたらす影響は私の予想をはるかに超え、紙から電子へのメディアの移行だけでなく、グローバル時代におけるメッセージのあり方そのものを考え直す必要を迫っているようである。

 まず、グローバル化の意味である。内部告発サイト・ウィキリークスは2010年、イラク戦争やアフガン戦争に関する一連の米軍関連情報や米国外国公電を次々にオンライン上で暴露したが、ウィキリークスの情報をどう扱うかに関して、英紙ガーディアンと米紙ニューヨークタイムズではかなりの差があった。ガーディアンが記事として選んだ一定の基準は、「(グローバルな視点で)公共の利益となる要素があるかどうか」だったが、当該国の新聞でもあるニューヨークタイムズは公電報道を始める前に、どの公電を公開するかを米国務省に伝え、意見を聞いている(『暴露』を書いたグレン・グリーンウォルドが同紙を批判する点である)。

グローバル化と表現の自由

 民主主義社会を維持する機能としてのジャーナリズム活動は国家(権力)の監視が使命であり、ジャーナリストは秘密を暴くことに情熱を傾けるが、入手した情報をすべて公開するかどうかについて、いよいよ国内のみならず、国際的な視点をもって判断せざるを得なくなっている。その確固たる基準と覚悟が必要なのである。

 慰安婦問題について言えば、朝日新聞が取り上げた〝証言〟が国内のみならず、当該国の世論を大きく刺激し、それが国際問題に発展した。かつてなら一国内で完結していた情報空間がいまやグローバルに広がり、それがただちに国際問題にはねかえる。新聞紙が3日もたてば魚やてんぷらの包み紙に使われ、捨てられた時代には、「ひとのうわさも七十五日」と高をくくることができたとしても、いまやそのような傲慢な態度は許されない。「サイバー空間は忘れない」からである。より正しい報道を追及し、訂正すべきはすみやかに訂正すべきである。

 もう一つは、表現そのものが持つ制約である。かつて大宅壮一は「ジャーナリズムはすべてを四捨五入する」と言った。善行を働いた女子大生は成績もよく美人となり、逆に凶悪犯罪を行えば、鬼畜のような人間になってしまう。見出しも含めて(私の整理部経験で言えば、見出しはより極端に)デフォルメするのがジャーナリズムの宿命でもある。

 光の当て方によって、物はさまざまに見える。事物のより客観的な側面を抉り出すのがジャーナリストの務めであり、自分の予断のもとに都合の悪い事実を隠蔽するのは厳に戒めるべきだが、表現そのものに一定の枠がはまることはやむを得ない面がある。

 しかし多メディア化の利点として万人に「表現の自由」が開かれ、さまざまなメディアや筆者がそれぞれの視点から事物を論じあうことができるようになった。だからこそ多様な意見の間で相互の「表現の自由」を尊重すべきなのに、なぜ池上コラム見合わせなのか、ということである(自らが依頼した原稿だっただけに、理解に苦しむ)。

総メディア社会とジャーナリズム

 ところで今回の朝日新聞バッシングは、新聞、週刊誌、ネットの意見ばかりでなく、政権側の執拗なメディアでの発言も含め、朝日の報道が一部誤報であったことをもって、これまた一部に慰安婦問題そのものが存在しなかったと言わんばかりの論調も見られた。ここでも、歴史を点検し、グローバルな解決策を見出していこうという姿勢(冷静に意見を戦わす言論の場)が希薄なのも、社会の危うさを感じさせる(『週刊現代』10月11日号は「世界が見た『安倍政権』と『朝日新聞問題』」という特集で、バッシングの背景に潜む現代日本の政治動向に警戒心を強める海外の論調を紹介している)。

 安倍政権が進める強引とも言える政策をチェックする役割を朝日新聞に期待する声はなお小さくなく、だからこそ同紙には、膿を出し切る起死回生の改革が必要である。「総メディア社会とジャーナリズム」の関連で言えば、すべての人が表現の自由を行使できる具体的手段を持つようになって、かえってその内実が痩せ細るようでは元も子もないと言えよう。

投稿者: Naoaki Yano | 2014年10月26日 18:47

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