漂う「総メディア社会」①政権攻勢×マスメディア弱腰に潜む危機(2015/2)
昨年はマスメディアが揺れた。朝日新聞の大混乱については本コラムでも取り上げたが、暮れの総選挙をめぐっては安倍政権からテレビ各社に対して「報道の公正」で釘を指す動きがあった。これにいくつかの局や番組が安易に従ったのは、マスメディアの「報道の自由」について強い疑義を生じさせた。「総メディア社会」が漂流している。
かつて報道機関は民主主義社会を支える基本的な権利である「表現の自由」を担う気概を持っていたはずだが、それが根底から覆されるような出来事が続いている。
朝日新聞のその後を記せば、⒓月下旬に公表された、慰安婦報道を検証する第三者委員会(中込秀樹委員長)報告書は、虚偽だった「吉田証言」を長年放置してきたことは「読者の信頼を裏切るもの」だったと批判し、ジャーナリスト・池上彰のコラム掲載を見合わせたのは当時の木村伊量社長の判断だったと認定した。同社はそれより前に渡辺雅隆社長をはじめとする人事刷新を行って新たなスタートを切り、池上コラムの再開も決まった。
しかしこの事件は、ライバル紙、週刊誌、さらにはネットなどの朝日新聞批判、というよりバッシングのすさまじさ、その内容の低劣さの方にこそ、この国全体の「表現の自由」の形骸化を見ることができる。「表現の自由」とはもちろん、すべての人が自分の見解を述べる自由ではあるが、異論を封殺しようということではまったくない。そして議論には、当然のことながら、節度というものが望まれる。
テレビ各社への申し入れ
その点でもう一つ見過ごせないのが、安倍政権のテレビへの過度の介入であり、それに唯々諾々と従うメディアの姿勢だった。籾井勝人NHK会長は就任早々の1月、「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」などと、報道という行為そのものを否定するような発言をした。安倍内閣によって任命された百田尚樹経営委員も都知事選挙でタカ派候補の応援演説に立つなど、NHKが公共放送であるとの「幻想」は打ち壊されつつある。
安倍政権の体質がよりはっきり表れたのが暮れの総選挙をめぐって、自民党が在京テレビキー局各社に送った「公平中立、公正の確保」を求める文書である。
放送は公共の電波を使用することで、電波法によってかなりの制約を受けているが、放送法でも、放送内容にいくつかの制約を課せられている。同法第1条は「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送の自由を確保すること」をうたい、編集に当たっては、①公平及び善良な風俗を害しないこと、②政治的に公平であること、③報道は事実をまげないですること、④意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること、といった「番組編成準則」が定められており、テレビ局はそれを順守している(はずである)。
選挙を前にわざわざ確認を求める文書を送ること自体きわめて異常と言っていい。しかも、その内容は、「出演者の発言回数や時間などは公平を期す」、「ゲスト出演者などの選定についても公平中立、公正を期す」、「テーマについて特定政党出演者への意見集中などがないようにする」、「街頭インタビュー、資料映像などでも一方的な意見に偏らない」などと、きわめて具体的だった。
唯々諾々と従うテレビ
放送法第3条は「放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と番組編集の自由も認めているけれど、今回の自民党の文書は、その、「干渉」にあたるのではないだろうか。
選挙時のテレビ各社の報道ぶりを調べた法政大学の水島宏明教授によれば、「アベノミクスについての報道が目立った半面、原発についての争点報道が極端に減り、被災地復興やTPPもわずかしかなかった」といった傾向が見られ、「(文書の)影響を受けた可能性がある」という(1)。もっとも、テレビ局や番組により対応に差があり、普通の報道を貫いた番組ももちろんあった(自民党=政権からすれば、選挙期間中に“自粛”する効果が得られれば、後にどういう意見が出ても構わないわけである)。
折しも俳優、菅原文太逝去の報が流れたが、その際一部の番組で、彼が後年取り組んだ反戦や反原発などの活動への言及がなかった、深夜の討論番組に出演が予定されていたゲストが直前にキャンセルされたといった〝異変〟がネットで流されていた。
ここには、「戦後レジームからの脱却」を掲げた政権の、自己に不都合な言説を力づくで押さえようとする攻勢があり、それに唯々諾々と従うように見えるテレビ局側の弱腰がある。これはたしかに戦前の言論弾圧の悪夢を思い出させる。
ジャーナリスト、青木理は昨年暮れに出版した『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』(講談社)の中で、関係者にインタビューするなど、朝日新聞はなぜ慰安婦報道の対応を誤ったのかを追及しつつ、その背後に隠された意図、現代日本を覆う「ドロドロとした動き」があることに強い警鐘を鳴らしている。
『自由のためのテクノロジー』
かつて政治学者、イシエル・デ・ソラ・プールは、『自由のためのテクノロジー』(2)という本で、印刷メディアが勝ち取ってきた言論の自由が、メディア発達史の中でかえって狭められつつあることを危惧し、最後に「21世紀の自由社会では、数世紀にもわたる闘いの末に印刷の分野で確立された自由という条件の下でエレクトロニック・コミュニケーションが行なわれるようになるのか、それとも、新しいテクノロジーにまつわる混乱の中で、この偉大な成果が失われることとなるのか、それを決定する責任はわれわれの双肩にかかっている」と述べたけれど、「総メディア社会」において、まず既存メディアの方が大きく後退しつつあるように思われる。
オンライン・ジャーナリズムの方はどうか。期待できる面もあるが、朝日新聞事件で示されたようにマイナス要素も強く、まだ確たる態勢は樹立できていないように思われる。これについては稿を改めてふれたい。
<注>
(1)朝日新聞2014.12.27「Media Times」
(2)『自由のためのテクノロジー ニューメディアと表現の自由』(堀部政男監訳、東京大学出版会、原著は1983)
投稿者: Naoaki Yano | 2015年03月08日 17:13