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2015年04月25日

漂う「総メディア社会」②短絡思考を助長するソーシャルメディア(2015/4)

 インターネットの生活道具としての便利さは語るまでもなく、私たちはその恩恵を受けていることすら忘れているほどである。インターネット上に有意義な情報があるのももちろんだが、ソーシャルメディアを中心とする新しいメディアが私たちの思考をどんどん短絡的にしている面も否定できない。「漂う『総メディア社会』」の続稿として「オンラインジャーナリズム」を取り上げる前に、この点について考えておこう。

 例によって卑近な話から。

 私は最近メキシコを訪れたが、メソアメリカ文明の一遺跡(ティオティワカン)を見学するツアーに参加したとき、現地ガイドがトイレ休憩をとるのに際し、「具合が悪くなったら、いつでも車を止めて、適当な場所に案内してあげますよ」と冗談まじりに言った。原野の中でなら立小便も許されるわけである。つい最近まで日本でもそういう風景はふつうに見られた。

些細なことも許さない不寛容

 ソーシャルメディアが発達して、誰かがこれを目撃して動画をアップしたらどうなるだろうか。実にけしからぬことだと糾弾され、本人の社会的立場は危機に瀕する恐れもある(立小便は軽犯罪法にもふれ、推奨されるものではもちろんない)。この程度なら許容できるのではないかと見て見ぬふりをするのは、社会生活の潤滑油として、馬鹿にできない役割を果たしてきた。ささいなことを大げさに取り上げ、糾弾するといったことはマスメディアの時代にもあったけれど、取り上げるにはそれなりの判断が働いた。ソーシャルメディアではそういう敷居がまったくと言っていいほどない。

 誹謗中傷にしても、だれかが批判の刃を向けると、ほとんど必ずといっていいほど、それに追随する発言がネットに現れ、これが大きなカスケード(滝)になって、当の本人を追い詰める。

 ソーシャルメディアでの発言は、ツイッターに象徴されるようにどんどん短くなり、フェイスブックでは、「いいね!」ボタンを押すだけで賛否を示せるし、ラインなどでは文章抜き、絵文字だけのコミュニケーションも成立している。こういう「書く」環境の激変は、私たちの思考に大きな影響を与えている。

 短絡的な情報発信が主流になると、ものごとは賛成か反対かという二者択一を迫るものになり、しかも大勢は威勢のいい意見になびきがちである。そういう風潮は異論を封殺する危険を内包している。

 他人を攻撃するのは威勢がいい。右翼的な発言も威勢がいい。「そうとばかりは言えないのでは」と疑問を呈したり、「こういう見方も考えられる」といった態度は「煮え切らない」ものとして、ネット言論との親和性が低い。右翼的な発言に留保をつけると、「お前はいつから転向した」と乱暴に切って捨てられたりもする。

リベラル派知識人の退場

 ネットの匿名性、抑制の利きにくさが、本音を過度に吐露したり、極端な場合、思ってもいないことを過激に書きつけるといった結果を生む。精神科医の香山リカは『ソーシャルメディアの何が気持ち悪いのか』(朝日新聞出版、2014)という本で、抑制を欠いた暴論の氾濫を憂うと同時に、「発言を期待しているリベラルな人がどんどんネットから離れていく」と愚痴っぽく嘆いている。

 ネット上にそれらの発言がないわけではないが、ほとんど関心を呼ばないし、話題の大きな渦になることは非常に少ない。この種の言論はカスケード化しない。このソーシャルメディアの特徴に、オンラインジャーナリズムの難しさがあると言えるだろう。

 これは日本だけではなく、むしろ世界共通の傾向である。だからこそアメリカの政治学者、キャス・サンスティーンは早くから、「カスケード現象」に警鐘を鳴らしたわけだが、思考の短絡傾向は日本人にとくに顕著なように思われる。

ITは「パンドラの箱」?

 私は10年ほど前、<IT技術は日本人にとって「パンドラの箱」?>という文章を書いた。

 骨子は、欧米人は二者択一の事態に直面した時、対立する考え方を暴力的に排除もするが、対立する意見、あるいは世界があること自体はつねに意識している。日本の場合は、二者択一の場面で判断停止することが多く、その場の「空気」とか、状況に埋没し、流されてしまう。この新しい道具は日本人の「個」を育てるよりも、かえって全体の「空気」拡大装置として働きかねない(讀賣新聞2006年2月7日夕刊文化欄)というものだった。

 その懸念は見事なまでに現実のものになった。かつて集団に埋没していた日本人はいまやインターネットに埋没しがちである。手段を手段として自律的に扱うことが苦手なので、便利な道具に飛びつき、それに流されてしまう。

 日本人がかつての習慣をあっという間に失くしてしまう傾向は、以前にも参照した『平成26年版情報通信白書』のデータにも垣間見える。「1日あたりの端末等の接触時間」調査によると、たとえば「スマホやフィーチャーフォンを使って私用でインターネットにアクセスする時間」は、日本47、米国62、英国63、フランス38、韓国66、シンガポール90(各分)となっているが、興味深いのは「紙の新聞・雑誌を読む時間」と「紙の書籍を読む時間」の合計が、日本31、米国59、英国57、フランス42、韓国48、シンガポール62で、日本が極端に少ないことである。日本人は紙のメディアを捨て、インターネットにあっさり乗り移ったようである。

 ネトウヨと呼ばれる人たちの議論や他人を口汚く攻撃する人たちの発言を見ていると、一部の人は心底そう考えているのではなく、他人の尻馬に乗って、あるいは日頃のうっぷんのはけ口として、きわめて安易に短文をまき散らしているように思われる。そういう発言が大きな力になってしまうことを警戒すべきである。

 これらのネットの傾向と安倍首相の思考・行動パターンがきわめて似ていることも大いに気になるところである。ソーシャルメディアの蔓延と安倍首相の躍進(ひとり勝ち現象)の関連は大いに論じるべきテーマではないだろうか。

投稿者: Naoaki Yano | 2015年04月25日 14:23

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