「表現の自由」の現代的危機と「御意」精神(2015/12)
憲法で保障された「表現の自由」とか「学問の自由」といった考えは、つい最近まで大事に育てなくてはいけない私たちの「基本的人権」だと考えられてきたはずだが、このところこういった考え、さらには憲法そのものまでをないがしろにしようとする「空気」が強まっている。それが上からの「強制」ではなく、むしろ下からの「自主規制」でふつふつと醸し出されているのが不気味である。そこにも、もちろんIT社会の影がある。
最近の事例をいくつか列記しておこう。
書店や大学を舞台に
東京のMARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店が9月下旬から「自由と民主主義のための必読書50」というフェアを開催した。学生団体「SEALs」の『民主主義ってこれだ!』や社会学者、小熊英二の『社会を変えるには』といった書物を並べたものだが、渋谷の書店員が10月下旬にツイッターで「夏の参院選まではうちも闘うと決めましたので!」などとつぶやいたら、「闘う相手として安倍政権を想定している」、「本の選び方が偏向している」という批判が出た。このため書店はいったんフェアを中止、デモ関連や安保法制に反対する著作を減らして11月中旬に再開した。
一書店員のツイッターでのつぶやきが反撃を呼び、それに書店側が過大に反応したかたちが、そもそも書店の棚が個性的なのはむしろ「良い書店」の特徴だった。たとえ大型書店であろうと、その一角の特集コーナーの本の選び方にクレームをつける方がむしろおかしいと言っていい。
放送大学では、7月に行われた単位認定試験の問題に、安倍政権を批判した文章が含まれていたのは不適切だったとして、大学側が学内サイトに問題を掲載する際に該当部分を削除している。
日本美術史の問題の冒頭に「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。平和と自国民を守るのが目的というが、ほとんどの戦争はそういう口実で起きる」、「表現の自由を抑圧し情報をコントロールすることは、国民から批判する力を奪う有効な手段だった」などと書かれていたのに対して、670人の受験者のうち1人から「現在審議が続いている事案に対して、このようなことをするのは問題」などと書かれたメールが届いた。
それを受けて大学は、「現政権への批判が書かれているのは設問と関係なく、試験問題として不適切」として、問題をサイトに上げる段階で当該部分を削除した。担当教授はこれに抗議、客員教授を辞任する意向を大学に伝えたという。彼は「学生に美術史を自分の問題としてリアルに考えてほしかったので、この文を入れた」、「大学は面倒を恐れて先回りした。そういう自主規制が一番怖い」と話したという(毎日新聞10・20)。
発端はたった1人の受講生から寄せられたメールである。大学側には授業やその試験は教授の裁量に任せるという「学問の自由」に対する配慮が働いていなかったように思われる。
「憲法の理念を守ろう」を〝否定〟
日野市役所が、古い公用の封筒を再利用する際、表に印刷された「日本国憲法の理念を守ろう」という言葉に黒塗りをほどこした。このことがツイッターやフェイスブックで話題になり、市役所には事実関係を確認したり、抗議したりする電話が殺到した。そのため日野市役所は10月30日、公用サイトに大坪冬彦市長の謝罪コメントを載せた。
現在の封筒には「日本国憲法の理念を守ろう」といった表示がなく、古い封筒を利用するとき、当該課の上司が「いまのスタイルに合わせるように」とあいまいな指示をし、担当者が形式的に「日本国憲法の理念を守ろう」に黒く墨を入れたらしい。
もとはあった「日本国憲法の理念を守ろう」という表示をとりやめた理由ははっきりしないが、表示がないことと「日本国憲法の理念を守ろう」に墨を入れる(否定する)こととはまるで違う。しかもただ墨を入れただけで、注意してみようとすれば判読できる。
公務員は憲法99条により、憲法を尊重し擁護する義務を負っている。役所として住民に憲法を守ろうと呼びかけることもむしろまっとうなことである。それを否定することになる行為をした担当者は何を考えてこれをやったのだろうか。ここが不気味である。
下からの自主規制が怖い
以上の事例はいずれも、権力の具体的行使によって「表現の自由」が侵害されているものではない。安倍政権の思惑を過敏にかぎ取った末端組織が、日本各地において、それに過剰に反応し自主規制している姿である。
2012年の安倍政権発足以来わずか3年。かくも短期間でこのような「御意」精神(上の思惑を先取りして、思惑以上に強力に事態を進めようとする傾向)が蔓延していることは、驚くべきことである。戦前に戻りつつあるような〝既視感〟を抱かせるが、それは一方で戦後の民主主義教育がきわめて浅薄だった(民主主義が謳歌されているから、それに表面的に従ってきただけ)という疑念も起こさせる。討議すること、考えること自体を封殺しようという考えは、たとえば臨時国会そのものを開かないといった安倍内閣の反立憲主義的性格に顕著だが、それが急速に下部に浸透し、しかも拡大強化されている印象を受ける。
かつて「表現の自由」の危機はもっぱらマスメディアを主体として論じられたが、いまは「総メディア社会」を反映して、危機のあり方も大きく変容してきた(もちろん政権側のマスメディア攻撃も激しさを増している)。
たとえば、ここで取り上げた事例における批判の声は、最初はごくわずかな人によって発せられている。小さな声を上げることができる便利さ、それを増幅させる効果、逆に過剰反応を引き出す恐ろしさなど、インターネットの扱い方の難しさもあらためて感じされられる出来事である。
投稿者: Naoaki Yano | 2016年01月20日 15:44