既存の枠組みで捉えられないIT社会の混沌(2017/7)
サイバー燈台に掲載しているサイバー空間と現実世界の交流史に修正を加えるというか、新たな関係図を追加した方がいいと考えている。両者の境界が完全に失われて、無数の島宇宙が交互に入り乱れ、サイバー空間の中に現実世界が入り込んだり、逆に現実世界の中にサイバー空間が組み込まれるというまさに混沌とした様相を呈しているからである。
そこでは既存秩序はほとんど崩壊寸前なのだが、その混沌ぶりを一般にわかりやすく提示したのが、一時、便利な情報サービスとして喧伝されたキュレーション・サイトだろう。
キュレーションサイト騒動
キュレーション(curation)という言葉は、博物館や図書館などの管理者や学芸員を意味するキュレーター(curator=利用の仕方などをガイドしてくれる人)という職業から派生し、インターネット用語としては、あるジャンルに関する情報をまとめて利用者の便宜を図ってくれる、いわゆるまとめサイトを意味する。
もともとは収集した情報を分類整理し、つなぎ合わせて新しい価値を持たせるという含意をもつこのまとめサイトが、本来の意味を大きく離れ、インターネット上の情報を適宜つなぎあわせてアクセス数を高めると同時に、グーグルの検索サイトで上位にランクされるように工夫して、大量の広告を稼ぐITビジネスへと変化した。
情報は広告を集める手段 (紙のメディアで言えば、広告本位の無料誌) でしかないのだが、ウエブというメディアの特質を反映して、記事そのものの質はほとんど顧みられず、記事に対するユーザーの評価よりも検索エンジンお気に入りのサイトを作るSEO技術(Search Engine Optimization=サーチエンジン適正化)に力点が置かれるようになった。
ライターにしても、自らの足で情報を取材するのではなく、インターネット上の各種情報をかき集め、それを適宜、引用したり、編集したりして、それらしい記事をつくることに専念し、情報の真偽や文章、写真を引用する際の著作権上の配慮もきわめて希薄になった。「専門知識のない人でもできる仕事」として、インターネットを利用した求人システム(クラウドソーシング)を通してかき集められ、まるでブロイラー生産工場のように、安い原稿料で記事を量産させられていた。
昨年暮れ、IT大手のDeNAは自社が運営してた医療系サイト「WELQ(ウェルク)」をはじめとする医療、ファッション、インテリアなどのキュレーションサイトで不正確な記事や著作権無視の転用があったことを謝罪、10サイトを休止すると発表した。他社のサイトでも、正確性を欠いたり、無断転用されたりした記事が見つかっている。
異次元のメディアのあり方
DeNAというブランドを信じてこれらの記事を読み、本当だと信じていた読者がいるとすれば、とんだ被害者だけれど、彼らがそういう記事を読むからこそグーグルの検索順位が上がる側面もあり、どこに責任があるかは微妙である。
DeNAのキュレーションサイトの提唱者および運営責任者は、ゲームの世界から新規事業への進出をもくろんでいたDeNAに企画を巧みに売り込み、そこでは50憶円とも言われる金が動いたと言われている。
ここにはものを書き一般に提供するとはどういう意味を持つのかといった表現行為に対する思い入れは一切なく、かつてメディアというものが漠然とながら持っていた文化的な営みとのイメージは完全に消えている。まさに仇花のように咲いた情報サイトだが、そのようなビジネスを可能にするのがインターネットの現在だと言えば、そう言えなくもない。
サイバー燈台に新聞記者時代の1999年に書いた「『表現の自由』の現代的危機について―インターネット規制と『サイバー・リテラシー』」(1)をアーカイブとして収録しようとして読み返し、メディア状況の変遷に改めて驚いた。
レポートは、表現の自由をめぐる問題は従来マスメディアを中心に考えられてきたが、いまや新しい情報環境の中でとらえ直すべきだという問題意識で書いたもので、最初にマスメディアと表現の自由をめぐる従来の論点を整理したあと、当時から顕在化していたマスメディアのアイデンティティの喪失にふれている。さらに情報流通のボトルネックになっていたプロバイダーのあり方を考察しつつ、サイバースペースと表現の自由について論じた。最後に憲法学者、奥平康弘の「表現の自由はなぜ保障されるかという根拠を問う作業(whyの議論)が必要だ」という主張を紹介しつつ、1997年のアメリカ最高裁の通信品位法違憲判決の意義を強調している。
そもそもプロバイダーは、内容に対するコントロールをする「パブリッシャー」としての責任があるのか、書店やニューススタンドのような「流通者」として、内容がどのようなものか知っていた場合は責任があるとされるのか、ただの「コモンキャリア―」として内容に対する責任はまったくないのか、といった議論が当時さかんになされたこと自体、ずいぶん懐かしい思いがする。
「表現の自由原理論」の無化
インターネット上の表現の自由をめぐる議論は、情報がユーザー好みのものに特化されて配信されるようになって、大きく挑戦を受けることになった。そこでは本人も気づかぬままに情報が技術によって取捨選択されるからである。「超監視社会」の影響も深刻である。
インターネットというメディアが、従来のメディアのあり方を大きく変えてしまったわけだが、そこへきてのキュレーション・サイトである。サイトそのものは人為的につくられているが、技術のみが前面に出て人為的営みとしての要素はほとんど消えている。
レポートでふれた「表現の自由原理論」再考という発想、問題設定そのものが無効化、あるいは無化されていると言っていい。国会が言論の府として機能しなくなったことも、根っこではこの問題とつながっているだろう。
注
<1>『朝日総研リポート』1999.6 NO.138
投稿者: Naoaki Yano | 2017年08月03日 11:43