「タテの倫理」より「ヨコの倫理」を重視(2017/9号)
最新メディア状況を通してIT社会の混沌とした側面を見てきたが、私たちの周辺に、これら表層的な変化に影響されない堅実な日々の生活があることも確かである。今回は、この点を改めて強調したうえで、IT社会をどう生きるかといった「処世訓」について考えてみたい。
市井の人々の堅実な生き方
私たちの身の回りに存在する堅実な生き方は、マスメディア、あるいはインターネットとはむしろ無縁なところにあるが、そこにはたしかに日本の長い伝統に培われた知恵が生きている。
災害があればいち早く現地にかけつけるボランティアの若者たち、定年後に日曜大工とか田舎での生活に余生を傾ける高齢者。街にはなお善意の話が満ちているし、地域の祭りは捨てられるどころか、かえって盛んになっている。自宅から通える地元の大学に進学したり、Uターンして地元に戻ってくる若者たちも多い。インターネットのクラウドファンディングで村おこしをしたという話もあった。
海外を旅行した多くの人が経験することだが、日本人観光客の評判はいいし、彼らが連発する「アリガトウ」という言葉は、どこでもはじけるような笑顔で受け取られている。私の知人は伊能忠敬の「一身二生」に見習うべく、新聞記者定年後にスペイン、バルセロナで豆腐屋になった。
私も地に足のついた生き方がなお社会の大きな比重を占めていることを知っている。むしろこういった堅実な生き方がITによって阻害されないように、むしろそういった生き方をこれからも広めていくために何をすべきかを、サイバーリテラシーの課題にしてきた。
処世訓としての「サイバー倫理」
IT社会を生きるための「処世訓」として強調しているのが「サイバー倫理」である。もちろん倫理は古くからあり、それは今でも大切なことがらだが、IT社会に対応するには、その「指針の空白」を埋める新たな倫理が必要である。私はこれを「情報のデジタル化が引き起こす問題に有効に対応するための倫理=情報倫理」と呼んできたけれど、今回、呼び名を「サイバーリテラシー」にあわせて「サイバー倫理」と変えることにした。
長い間、情報法についての考察を続け最近、『情報法のリーガル・マインド』(勁草書房)という労作を世に問うた情報セキュリティ大学院大学元学長、林紘一郎氏は、有体物中心の従来の法体系と情報法との間には越えがたい断絶があるとして、「『情報法』には従来にはない新しい法の発想、つまり新しいリーガル・マインドが必要である」と述べている。倫理にもその「断絶」がある。
デジタル技術はちょっとボタンにふれるだけでとんでもない行動の引き金を引いてしまう。そういう便利だが、一方で危うい技術への賢い対処法や、これからみんなで快適なサイバー空間を作り上げるための心構えを、具体的指針としてまとめたいと考えているわけである。これまで折りにふれてツイッターで発信もしてきたが(ハッシュタグ「情報倫理」で検索できる)、これもサイバー燈台スタートにあわせて、ウエブでの作業を充実させたいと計画している。
この際改めて、IT社会を豊かなものにするためのサイバー倫理について、いくつかふれておこう。
倫理は、それを強調する側の人間(為政者など)が、自らの都合に合わせて倫理を説くばかりか、自らはその外において他者にのみ強要する点できわめてうさん臭くもあり、また危険な側面を持っていることは肝に銘じておくべきである。
サイバー倫理として強調したいのは、それがもっぱら「ヨコの倫理」を目指していることである。
たとえば古い倫理としての儒教では、仁、義、礼、智、信といった徳目が強調され、そこでは父子、君臣、長幼と、タテの関係における倫理がもっぱら問題とされてきた(もちろん、夫婦、朋友も含むけれど)。家族、地域、会社、国といったタテ型に構成された集団を維持するための徳だけでは、インターネット社会を豊かなものにしていくことは難しい。
大事なのは、国境を越えた世界の人びととインターネットを通してつながる、ヨコの連帯を構築していくための倫理である。
技術だけで解決するのは難しい
倫理と技術の関係についてもふれておこう。友人を通して意見を聞いた40代のIT技術者は、「『サイバーリテラシー3原則』の指摘には賛成できますが、これはリテラシーではなく技術・仕組みで対応すべき問題です」というメールをくれた。
その可能性はもちろんある。私も『サイバーリテラシー概論』(知泉書簡)で「一定の理念に基づいた技術によるサイバー空間の再構築」についてふれ、こう書いている。
「たとえば、サイバーリテラシー3原則を、以下のように変更することも、やろうとすればできるのではないだろうか。
・サイバー空間にも制約がある
・サイバー空間も忘れる
・サイバー空間はコミュニティを生みだす
IT社会をよくするためには、法、技術、倫理があいまって働かなくてはいけないというのが私の考えで(ローレンス・レッシグは4番目の要因として「市場」を加えている)、技術や法で解決できるものは解決すべきだけれど、それだけではどうしても対応できない部分が残る。それを補うのがサイバー倫理である。
最後にもう一点。倫理は人と人との関係性(ネットワーク)の中で生まれてくる。ネットそのものを技術の工夫によって素晴らしいものにしていくには限界があるということである。だから私は、現実世界とサイバー空間が交錯する地点で新しい倫理を構築すべきだと言ってきた。これはIT社会の新しいソーシャルキャピタル(社会関係資本)の生産である。
投稿者: Naoaki Yano | 2017年09月24日 13:21