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2017年12月30日

<座間アパートの9遺体>ネットに「寄りかかる」生活を考え直す時(2017/12号)

 神奈川県座間市のアパートで10月末、9人の遺体が見つかった事件は、ツイッターに「自殺」をほのめかす書き込みをした女性を言葉巧みに誘い出し殺害するという、近ごろまれにみる猟奇的なものだった。犯人、白石隆浩容疑者がねらったのは高校生3人を含む若い女性8人(巻き添えで男性1人も殺された)。犠牲となった若い女性に周囲の人びとは何を教えるべきだったのだろうか。

Ⅰ 面識のある友だちを大事にする

 最近は、わからないことがあれば周囲の人びとに聞くより前に、インターネットで調べるのがふつうだという。そういう調子で自分の悩みごともツイッターや掲示板に書き込む。自殺したいという考えが浮かぶと、そのままそれを投稿する。

 だれでも一度や二度は自殺したいと思ったりするものだが、周囲の人から止められたり、たしなめられたり、本人自体がそう思ったことすら忘れて、それで平穏に過ぎていくのが普通である。

 しかし、「サイバー空間は忘れない」。いったん書き込んだ文章はほぼ永久に記録され、しかもキーワードで検索されて引き出される。犯人はまさにインターネットの大海に竿を下して、自殺志願の声を釣り上げていた。彼は「被害者のほとんどが本気で自殺しようと思っていなかった」とも自供している。

 自殺と言えば、2004年に集団自殺が頻発したことがあった。たとえば同年10月、埼玉県皆野町に駐車中のワゴン車で男性4人、女性3人が練炭中毒で集団自殺しているのが見つかっている。年齢は20歳から34歳。いっしょに死ぬために、とくに面識のないまま集まった。同じ日に横須賀市でも女性2人がレンタカーの中で自殺しているのが見つかった。

 インターネット黎明期の事件で、同じ考えの人びとを広範囲に結びつける新しい道具の威力と怖さを知らしめたが、十数年を経た今日、そういう声をかき集める殺人犯を生んだわけである。

 若いうちはさまざまな悩みを抱えるものだが、まず友だち、兄弟、親、そして教師といった身近な人に相談するのが鉄則である。そういう関係が希薄になっており、だからこそネットにすがるのだろうけれど、その危険性が今回はっきりした。サイバー空間から現実世界に軸足を移さなくてはいけない。

 友だちは友だちでやっかいな問題もあるが、お互いに面識がある、肉体を介した関係であることが大切なのである。ネット上には、こういった悩みに誠実に対応してくれる相談所もあるけれど、ネットの向こうの不特定多数を素朴に信頼するのはやめるべきである。

Ⅱ 心の中をネットにさらさない

 心の中によこしまな考えが湧き出ることがあるが、それをうまく処理するのが生きる知恵である。放っておけば妄想は限りなく肥大化し、手に負えなくなるが、少し運動したり、旅に出たり、瞑想したりすれば、跡形もなく消えていくことはよくある。大人ならだれでも経験していることである。

 若いころはそれができない。だから自分自身に振り回されてしまう。自分の中に浮かんだ考えを「悪魔の声」だとして排斥しようとした人々も多いのである。
 
 文字の発明されていない口承時代では、思考と行動は深く結びついていたから、たとえば、人を殺す、というような考えを心に抱いただけで罪だと感じた。昔は人をうらやむとか、憎むとかいうような感情が内心に浮かんだ場合、恐ろしいものが外からやってきて自分の中に巣くったと思ったわけで、だから自殺するとか、人を殺すということを考えるだけで、罪深いことだと感じた。

 心の健全な働きというものをきちんと教えてやるべきである。公衆の目にふれるネットに内心をさらすなどというのはもっての外なのである。

Ⅲ 「書く」ことに緊張感をもつ

 かつては書き言葉と話し言葉は違うと言われたが、いまや人びとは話すように書く。インターネットの普及で書くという行為に対する緊張感、それなりの覚悟というものがなくなったが、昨今は、「ものを書いてみんなに読んでもらえば金が入る」というシステムが蔓延して、書くという行為の意味が大きく変質した。このコラムでもふれたキュレーションサイト、ユーチューバーなどがその例である。
 
 たとえば今年、俳優の西田敏行さんが覚せい剤で近く逮捕されるという偽情報を流していた3人の立派な大人(40代から60代の男女)が、偽計業務妨害の容疑で書類送検された。彼らは週刊誌記事の匿名容疑者を勝手に西田敏行と断定して、自分たちのブログに書き込んでいた。
 
 8年ほど前にも、お笑いタレントに関する誹謗中傷記事を書いていた女性会社員ら19人が脅迫や名誉棄損の疑いで摘発されている。彼らほとんどネットのデタラメな書き込みを鵜呑みにし、本気で「殺人犯」と思ったり、むしゃくしゃしていて、腹いせにやったりしていた。身元を特定され、取り調べで刑事から真実を告げられると、ほとんどの人が責任を他人に責任をなすりつけた。

 7月の事件で注目されるのが、その動機の変化である。3人は警察の調べに対して、「広告収入を得るためだった」、「ブログを読んでほしかった」と述べた。ここにブログで広告収入を稼ぐ、あるいはアクセス数を高めることで、ブログ運営者からの見返り収入を期待するという背景が示されている。
 
 多くの人に読んでもらおうとすれば、事実よりも話題性に関心が向かう。どうしても表現は過剰になり、極端な場合、嘘でもいいということになる。
 
 これは今回の事件と直接関係はないが、書くという行為の変質を受けて、あらためて文章を書く、メッセージを書き込むという「行為」の意味をきちんと教えた方がいい。

投稿者: Naoaki Yano | 2017年12月30日 12:08

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