林「情報法」(2) 

「群盲象を撫でる」と「木を見て森を見ず」の微妙な差

 「情報法の現状」を端的に表す格言を上げるとすれば、「群盲象を撫でる」が一番良いのではないかと、かねてから考えていました。そこで、最初の原稿においては、この言葉を使っていたのですが、書きながら「言葉の使い方に厳しい世論を考えると、避けた方が良いかも」という逡巡を少しは感じていました。

 本書編集者の鈴木クニエさんは、更に厳しい見方をされていたようで、最初の校正段階で「木を見て森を見ずでは、いかがでしょうか?」とやんわり提案されてしまいました。私も上記のような感触を持っていましたので、安全策をとることになりましたが、出版後になっても「やはり当初案で行くべきだったのでは?」という気持ちを捨てきれないでいます。その心は何でしょうか。自問自答してみましょう。

 私がもともと「群盲象を撫でる」に親しみを感じたのは、「健常者にはゾウの全体像が見えるが、盲者には見えない」という意味でも、「(健常者であっても)視野が狭い人には全体像が見えない」という意味でもありません。私たちは誰でも「目が曇っている」ので、「全体を把握するには相当の努力を要し、通常は多くの人の多様な視点の分析を総合しないと全体像にならない」というのが実態だと思えたからです。

 それを「木を見て森を見ず」に代えてしまうと、「誰もが限界を持っている」という見方が抜け落ちてしまい、「部分に拘泥する人は全体が見えない」という側面だけが強調されることになってしまいます。つまり「立派な人には全体像が見えるが、そうでない人には無理だ」という、認識者のレベル差を前提にした表現になります。これを更に「井の中の蛙大海を知らず」と替えると、その差はますます広がっていくでしょう。

 つまり「群盲象を撫でる」の場合には、人は皆「群盲」であること、すなわちハーバート・サイモンが言った「限定合理性」(Bounded Rationality)しか持ち合わせていないことを前提にしているのに対して「木を見て森を見ず」の場合には、「木も森も見る」ことが出来る人は存在し得ること、にもかかわらす一般人にはそれができないことを前提にしているように思えるのです。

・ひとはみな「郡盲」である

 こうした視点は、法学の場合特に大切なように思われます。というのも、法律は原則としてあらゆる国民に平等に適用されるものですから、誰もが「合理的な判断ができる個人」(a reasonable person)であることを前提に、その平均値(an average reasonable person = ARP)を基準に判断しているからです。例えば、自動車事故を起こした時の責任を論ずる場合は、「平均人にはこの程度の注意義務が期待されている」という尺度を使って、過失のあるなしが判断されます。

 これは大量の法的処理(この例では、交通事故に関する裁判)が必要で、かつ近代法の大前提である「個人の平等」を旨とする限り、維持すべき大原則のように思われます。確かにその側面はありますが、矢野さんのライフワークである「サイバーリテラシー」の視点から見ると、リテラシーに著しい差がある個々人を「平均値管理」することの問題点も浮かび上がってきます。そして何よりも、「人は合理的な判断をする」という仮説そのものが疑わしくなっています。

 社会が高度化・複雑化を遂げた現代では、判断の合理性が疑われる事例が多くなっています。専門分野においても「日光浴は大切だ」と言っていたのが「紫外線は健康に悪い」という見方に変わり、「タバコは嗜好品の代表」と思われていたのが「タバコは百害あって一利なし」に近い理解になったのは、ここ半世紀以内のことです。つまり「常識」が覆される事例が増えており、私たちは「合理的な判断ができる」ほど優秀ではなく、「誤り易い個人」(an error-prone person = EPP)と捉えた方が、事実に近いのではないでしょうか?

 このように考える私は、有体物の世界では「ARP 仮説」が有効かもしれないが、情報を扱う分野では、「EPP 仮説」を部分的に組み込まないと、法体系として欠陥を内包することになるという懸念を捨てきれません。そして、ここまでの含意をも使う格言としては、やはり「群盲象を撫でる」しかあり得ないように思います。

 このような考えをする人が、法学以外にもいるのではないかとネット検索をしたところ、倉田祥一朗氏が葛飾北斎(北斎漫画第8編)の教えのとおり「一つの大きなことを理解するためには、多様な視点から見ることが大事であることを教えていると理解している」(倉田祥一朗「科学屋」)と述べている文章がありました。

 このような見方からすれば、「群盲象を撫でる」の方が「人は皆限定合理性しか持ち合わせていない」という平等主義で、「木を見て森を見ず」の方が逆に「全体が見える人と部分しか見えない人がいる」という差別的な表現だとも言えそうです。ただ、ネット上の論争を見ていると、このような冷静な議論は望むべくもなく、「群盲象を撫でる」=差別発言として切ってしまわれそうです(炎上するかもしれません)。

・「YAHOO ! 知恵袋」と「教えて! Goo」

 しかし半面で、ネット上の反応は意外に冷静かもしれません。「YAHOO ! 知恵袋」のベスト・アンサーに、次のようなやり取りがありました。

rsvp878さん2006/9/13 09:31:25
「群盲象を撫でる」という慣用句は差別的であるため使ってはならないのでしょうか?

 ベストアンサーに選ばれた回答
kanariakajinさん 2006/9/13 10:39:34
「群盲象を撫ず」「群盲象を評す」「群盲象を模す」ともいいます。
意味するところは、平凡な人が大事業や大人物を批評しても、その一部だけにとどまって全体を見渡すことができないことです。
元来は、人々が仏の真理をなかなか正しく知りえないことをいったものです。
このような意味を思えば、差別的な部分はありませんので「盲」という語はあっても、使用に差し支えありません。

 次に、2つの格言の差について、「教えて! Goo」というサイトのやり取りを見ておきましょう。

質問者:yanku質問日時:2001/02/08 00:15回答数:6件
「群盲象をなでる」ということわざがあります。
多くの盲人が象を撫でて、それぞれ自分の手に触れた部分だけで巨大な象を評するように、凡人が大事業や大人物を批評しても、単にその一部分にとどまって全体を見渡すことができないことです。
同じような意味のことわざを探しています。
日本のものでも、外国のものでも、どちらでもOKです!

 No.5回答者: martinbuho#2 回答日時:2001/02/08 08:04
もっとも近いのは[木を見て森を見ず]でしょう。英語からの意訳といわれます。
(You cannot see the forest for the tree.)
群盲という言葉は差別用語の危険があり、この諺も使いづらい世の中になりましたので、少し意味は違いますが、木を見て・・を使われたらいいと思います。諺は時とともに応用(用例)が変るものです。昔は盲人を大切にして、生計が成り立つように一種の特権が認められていました。(目明きが同じ職に就けないなど)従って、盲人の中にはそれを悪用して庶民を困らせるものもいたといいます。群盲・・の諺には、庶民が日ごろのうっぷんを晴らす気持ちが込められていたようです。
凡人は大人物の心は分からないと解釈するのは拡大解釈ではないでしょうか。その意味なら[燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや](えんじゃくいずくんぞこうこくの・・)がぴったりです。ツバメやスズメに大鳥の心など分かるもんかといった意味です。

NO.6 回答者: earlybird 回答日時:2001/02/08 18:41
「木を見て森を見ず」なら、ドイツ語に、このような言い回しがあります。
“den Wald vor lauter Baeumen nicht sehen” 意訳すると「目の前の木々ばかりにこだわって森が見えない」といったところでしょうか。

 しかし、いわゆる『いいね』に類するマークはNo.6 に2つ付いていますが、No.5を含め他の回答には1つも付いていない点が気になっています。情報法の特質の1つに「不確定性」という性質がありますが、ある格言を使うか否かや、ある格言と同値とされるものが本当にそうであるかについても、かなりの「不確定性」がありそうです(この言葉については、拙著の重要なタームの1つですので、いずれ本稿で議論する予定です)。