林「情報法」(3)

所有権という妖怪

『情報法のリーガル・マインド』で強調したように、私は「情報法は有体物の法と連続している部分がある」と同時に、「有体物の法とは断絶した部分もある」と考えています。それを象徴する例として、まず所有権について「物を所有するのと同様に、情報も所有することができるのか」という視点から、数回に分けて整理しておこうと思います。情報ネットワーク法学会のプレゼンテ―ションも「情報は誰のものか、どこまで排他性を主張できるのか?」をテーマにする予定です。

・「所有権」は資本主義社会の基本

 「物を所有する」という事実を社会的にどう位置づけるかは、古代から人間社会の秩序を形成する基本的な枠組みでした。生産手段や市場機能の発展と密接な関係にあり、「所有権」概念が成立するまでの過程は国や風土により、文化や生産方式によって多様で、「所有」をめぐる言説は経済学や法学にとどまらず、人文・社会科学全般に広く行き渡っています(大庭健・鷲田清一 [2000]『所有のエチカ』ナカニシヤ出版)。

 現在、私たち日本人が住んでいる「資本主義社会」では、各人が自己の財産(私有財産)を持ち、それに対して「排他的支配」を及ぼすことを基礎として、経済活動が営まれます。ですから理想型としての資本主義社会では、皆が生活を維持できるだけの私有財産を持ち、経済的に平等に近いことが想定されています。資本主義と民主主義(自立した個人による統治)が同一視される場合が多いのは、そのためです。

 ここで権利の基本となるのは「所有権」で、私有財産を「使用・収益・処分」する自由が、すべて含まれます(民法206条)。自分で使おうが、他人に利用させて対価を貰おうが、焼いたり捨ててしまおうが、原則として自由です(法に触れたり、社会秩序に反してはいけませんが)。つまり、一旦「所有権」を得たら、それに関する限り政府その他の干渉を受けることがないので、絶対的排他性があると言えるでしょう(もっとも、法律でその権利を制限する場合はあります)。

 これこそ、近代市民の理想像とする「自己決定」(自分のことは自分で決める)を実現するものです。封建社会のように生まれた時から人生が決まるのではなく、才覚と運に恵まれればどのような人生も選べるには、「自己決定」が不可欠です。近代社会における私法の原則として「契約自由の原則」「過失責任の原則」とともに、あるいはそれに先立つものとして「所有権の絶対性」が挙げられるのは、理に適ったことでした。

・「所有権=排他性」の限界

 しかし、20世紀後半から21世紀にかけての時代の変化の中で、「所有権」の有効性にも疑問が投げかけられています。それには、所有権に代わる新しいテーゼの追究と、所有権では裁けない事象の顕在化という、2つの全く違った側面があります。

 前者の先駆けは「共産主義」の登場です。しかし、当初「ヨーロッパに幽霊が出る」(マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』冒頭の有名な言葉)として華々しく登場した理論も、結局は昔からある数多の独裁国家と変わらぬ制度と化して、20世紀末には衰退しました。

 このようにして、20世紀後半の「資本主義対共産主義」の大論争は、前者の圧勝に終わったかに見えました。ところが歴史の皮肉か、勝者のはずの資本主義の側が、現在存立の危機に立たされているようで、しかもその主因は意外なことに、前述の「所有権の絶対性」そのものなのです。つまり妖怪化した絶対的な権利には歯止めがないことが、致命傷になりそうなのです。

 その顕著な例は、資本主義がグローバル化を深める中で、貧富の差が拡大して解決策が見出せないことです。白人の貧者の支持で当選したトランプ大統領が、自身は大富豪であるというのは何とも皮肉ですし、所有権が絶対視される一方で「寄付文化」が根付いている国でも(例えば、ビル・ゲイツがいくら寄付しても)、医療保険の恩恵を受けられない国民をすべて寄付で救済することはできません。わが国の格差はアメリカほどではありませんが、それでもじわじわと拡大していますし、高齢化は更なる負担増をもたらします。

 このように、所有者の自己決定権を尊重するだけでは解決できない問題は、随所に見られます。わが国での具体例を上げれば、次のような事象です。① 排他性が絶対視されると公益が阻害される(市街地の景観維持や地震で機能不全になったマンションの建て替えが進まない、空き地・空き家問題が深刻になっている)、② 個を尊ぶことが行き過ぎると他人への配慮を欠いた無縁社会につながる(災害時の「共助」は言うは易く行なうは難い、老人の孤独死も「助け合い」精神の衰退と無縁ではない)。いずれも皆さんの身近で起こっている事柄ではないでしょうか。

 これらの問題は、「所有権」信奉が情報法を考える上でネックになっている事象につながっています。その例をいくつか挙げておきましょう。③ 生命情報の扱いをめぐって自己決定をどこまで認めるべきかの規範が定まっていない(臓器移植の意思表示なしに死去した場合誰が決定するのか、DNA情報は誰が取り扱いを決定するのが妥当か)、④「会社は株主のもの」という論理を徹底し過ぎると利潤が自己目的化する(リーマン・ショック以降「強欲資本主義」が批判されていますが、「自己決定」と「強欲」の境目はあるのでしょうか)、⑤ 知的財産も「所有できる」こととし他人の利用を排除すると、全体最適にならない(フェア・ユースなどの利用に対して敵対的になる)ことがある。

・たかが「所有権」、されど「所有権」

 しかし、このような欠陥を内包しつつも、「所有権」はなお、私権の基本としての地位を保ち続けるでしょう。物=有体物(民法85条は、「この法律において『物』とは、有体物をいう。」と定めています)は私たちの生活に不可欠で、製造業などの伝統的な産業が無くなってしまうことはないからです。しかし、有体物ではないサービスや情報が経済活動の中で比重を高めることは間違いなく、これらの活動を有体物中心の「所有権」で裁くことができるのか、また裁くことが効率的かは、まだまだ検討の余地があります。

(なお今回から数回分の原稿は、お断りしない限り書き下ろしですが、このような考えをまとめる機会を得たのは、丸善から7月に出版された『社会学理論応用事典』の1項目として「情報の所有と専有」という項目の執筆を、拙著の執筆に先立って依頼されたからです。編集幹事の1人である遠藤薫教授に感謝します。)