林「情報法」(6) 

「使用と利用」「フェア・ユース」「権利を専有する」という3つのキーワード

 情報ネットワーク法学会の討論(11月12日)が近づきましたので、いよいよ情報財を律する法的な基本概念を探るため、「使用と利用の区分」「フェア・ユースの意味」「権利を専有する」の3点を検討してみましょう。

・「自分で使用する」と「他人に利用させる」

 第4回の「所有から利用へ」で議論してきたところは、情報法の文脈で見ても重要な暗示を含んでいます。それは著作権法で、著作物の「使用」と「利用」という2つの概念を、明確に使い分けていることと関係しています。著作権法30条の「私的使用」と32条の「引用して利用」を比較してみてください。

 すると、著作権法で著作物を「使用」するとは、本を読む、CDを聴くといった行為、すなわち「自分で使用する」ことが分かります。他方、著作物を「利用」するとは、「引用」などに該当し誰でもできる例外(後述する「権利の制限」)を別にして、著作物を複製する、公衆送信するといった、原則として著作(権)者の許諾がなければできない行為をすること、すなわち著者(権)者から見れば「他人に利用させる」ことを意味します。したがって世間で広く使われている「著作物の使用許諾」という表現は間違いで、「利用許諾」が正しいことになります。

 このように両者を峻別した上で「使用」の概念を考え直すと、当該著作物が格納された媒体である本やCDやソフトウェア・パッケージを、購入するという事前の行為が無ければ実現できません(オンライン配信を除きます)。つまり「使用者」は通常「有体物の所有者」でもあったのです。

 著作権を含む知的財産の存在理由については、「インセンティブ論」と「自然権論」の2つの対立する見方があります。インセンティブ論とは、創作者の経済的利益を保護することで、創作活動を誘引・奨励するため、本来は誰もができる創作物を活用する行為を、立法的・政策的に制約している(「許諾権」あるいは「禁止権」)と考える理論です。知的財産制度を、国家により社会全体の利益と創作者の経済的利益のバランスを取る人工的なものと考えるもので、英米法系の諸国では、このような説明が一般的です。

 一方「自然権論」とは、創作物は作者の精神が発露したものと考え、それに対する権利は、人工的なものではなく自然的に発生する権利と考える理論です。従って原理的には、人が努力して創作した作品について、他人がこれを無断で活用するのは自然法ないし正義に反するとします。大陸法系の諸国では通説的な考えでした。

 しかし、どちらの説を採ったとしても「使用」と「利用」が区分できれば、媒体の所有者がその内容である「情報」を活用する場合と、所有者でない人が著作(権)者の許諾を得て、その内容である「情報」を活用する場合を明確に分けられるので、すっきりするように思われます。

 ところがソフトウェアのユーザ・ライセンスは、複製や公衆送信を許諾しているわけではないので、「利用許諾」ではなく「使用許諾」で、既に先の分類とは違っています。ソフトは無体財の代表格ですので、オンライン配信が一般化するにつれて、有体物との関連を重視した分類は、意味が薄れていくでしょうから、この区分が有効なのは、以下の2点についてだけと考えた方が良さそうです。

①  「使用する」は、有体物に対する権利の基本とも言えるが、情報が媒体に固定されていれば、情報財についても相当程度当てはまるようである。
②  「利用する」は、情報財に特有の要素があり、また情報を含む無体財の権利の基本とも言えそうで、有体物とは別の扱いを検討すべきである。

・「フェア・ユース」の意味するもの

 次に、フェア・ユースの規定の位置づけに注目してください。実はフェア・ユースは、二重の否定型になっているので、理解しにくいのですが、下図を元に、次のように考えれば分かりやすいと思います。まず大原則(デフォルト)が「情報の自由な流通」(Free Flow of Information = FFI)で、それに対する例外措置として、特定者にのみ利用を許す制度(図の塗りつぶした部分)が著作権などの知的財産制度であることを確認しましょう。そして、その例外として、一定の条件を満たした「公正な利用」(Fair Use of Information = FUI)の場合は、仮に著作権者の事前の承諾を得なくても「大原則に戻る」こと、つまり例外の例外として「情報の自由な流通」として許される(図において白抜きになっており、デフォルトと変わらない)、と理解すれば納得がいくかと思います。

 わが国の法制では「フェア・ユース」と呼ばず、「権利の制限」と呼んでいますが、「インセンティブを付与するために一定期間の排他的利用を認める」という著作権法の原則に対して、その「権利を(文字どおり)制限する」と考えれば、図が示すところと全く同じ構造です。このような枠組み(今風に言えば architecture)を理解することが、情報に関する権利設定を考えるための第一歩となることは、間違いないでしょう。

・「権利の専有」がもう一つの鍵

 第3のカギになるのは、第5回で説明を留保していた「権利の専有」という概念ではないかと思います。この用語は1887(明治20)年の版権条例まで遡る古い歴史を持ち(野一色勲 [2002]「特許権の本質と『専有』の用語の歴史」『知的財産法の系譜』青林書院)、他の知的財産制度と共有されています(特許法68条など)。ところが学説的には、排他的支配権であることを示す以上に特別な意味があるとは解されていない(加戸[2013]『著作権法逐条講義(六訂新版)』)、という不思議な存在です。事実、三省堂『知的財産権辞典』にも、標準的教科書の索引にも収録されていません。

 これは一体どうしたことでしょうか? 著作権は(所有権と同じ)物権の一種とされ、物権と債権を峻別するわが国(あるいは大陸法系)の法制にあっては、物権には対世的(世間一般に対する)排他性があり、それが制限されるのは例外だという大原則を貫かざるを得ません。そのような中で、例えば「複製する権利を専有する」とせず、「複製権を有する」とすれば、著作権の物権的性格が更に強くなり、物権そのもの(第4回で図示した排他性のスペクトラムの100%)になってしまい、some rights reserved が必要であっても、入り込む余地がなさそうです。それを避けるために「権利を専有する」という語を用いたということは、十分あり得るかと思います。

 しかし、このような説明をすると、かつて民法学界で議論になった「権利は占有(こちらのセンユウは、民法180条以下に規定されている一般的なものです)の対象か」という論争を蒸し返すことになるかもしれません。さらに言えば、ローマ法以来の難問といわれる「占有と所有の関係」についても、整理する必要が生ずるでしょう。実は、『情報法のリーガル・マインド』では、そこまでの深い検証をしないまま、情報については「占有権」に代わる「帰属権」がふさわしい、という提案をしました。

 ところが、気鋭の民法学者に教えを乞いに伺ったところ、「あなたが主張する帰属とは、占有と同じような状態を示すのか、所有に対応するような権利を示すのか」という基本的な質問を受けてしまいました。そこで西洋法制史の研究者である旧友に「読むべき論文は何か」と問うたところ、鷹巣信孝 [2001]「占有権とはどのような権利か(1)-(4)」『佐賀経済論集』33巻3・4号~34巻2号、を推薦されました。

 これを通読して感じたのは、「なるほど占有という概念は難しい」ということでした。先に述べた「準占有」(民法205条)に関する論考が少ないのも、無理からぬところです。しかし、一貫して「情報」という難題に向かい合ってきた私からすれば、この難題を克服しなければ道が開けないだろうことを、痛感しています。

 実は当初、5回目までの連載で、私が新たに主張する「帰属」という概念まで辿り着く予定したが、あと一歩及びませんでした。不安なまま学会発表を迎えますが、この議論の続きは、その後で。