学術交流の意義
前回速報でお伝えした、情報ネットワーク法学会での討論の成果を、今後数回に分けて考えてみましょう。まず「学術交流の意義」について紹介します。
・他人の説を理解する
世間話のレベルでも、「ある人がこう言っている」という情報が、正しく伝播するとは限りません。「伝言ゲーム」にあるように、あるいは「故意ではない fake news」が存在するように、情報を正しく伝え正しく理解するのは、意外に難しいのです。
学者の議論は、発信者自身が「正しく伝わり、正しく理解してもらえる」努力をしているのだから、そんな心配はないと思われるかもしれません。しかし、こちらの方は独自の概念や用語を使ったりするので、かえってややこしい面もあります。そのような障害がある割には、今回の登壇者の間(コーディネータの成原氏が全員を知っている以外は、お互いが「はじめまして」状態)では、事前の相互理解がかなり進んでいたように思われます。
その陰には幾つかの工夫がありました。まず第1は、それぞれが書籍を出しているので、事前に読んでおくことで、相手を知ることができました。第2に、自著には必ず本人の先行研究が言及されているので、それを読むことで更に深い理解が得られました。加えて第3に、登壇者だけのメーリング・リストを作り、自己紹介や短い事前打ち合わせをすることで、打ち解けた雰囲気を作ることができました。そして第4として、このブログがある程度役立った、と言ってくださる方がいたのは、幸せなことでした。
実は、これには成原さんと私との間の失敗体験が、生かされています。私は『情報法のリーガル・マインド』の執筆過程で、若手の研究者に分かってもらえるかどうかが気になりました。そこで成原氏と生貝直人氏に頼んで、構想の主要部分をプレゼンして反応を得ようとしました。しかし、その結論は「学者の議論を理解するためには、首尾一貫した論文か本が前提になる」ことを発見するだけに終わりました。今回の企画は、学者の間の相互理解を進めるには、「それぞれが(ほぼ同時期に)本を出し、それを肴に議論するのが一番良い」という命題を、見事に立証することになったようです。
このことを裏読みすると、パワーポイント依存の弊害を暗示しているようにも思われます。法学の学会は他の学会と違ってパワーポイント資料が少なく(仮にあったとしても文字情報だけが多く)、それが批判もされていますが、逆にパワーポイント全盛の発表(私が授業を持っている大学院では常態)では、「それだけで分かった気持ちになるのは危険」という用心深さが求められるでしょう。「他人を理解する」とは、「自分で本を書く」に匹敵するほどの、エネルギーを要する仕事なのです。
・「何か」が共有されている
さて、今回の登壇者の間では相互理解が進んでいるとすれば、その背景には何があるのでしょうか。多分、登壇者が何らかの共通認識を持っているはずですが、4人の共通項と言えば「日本人で男性」というくらいで、前回の写真のとおりバラバラです。年齢に至っては30代の3人と80歳に近い私との間には、半世紀近い差があるのですから、不思議というしかありません。
その鍵は、2つ考えられます。1つは、情報ネットワーク法学会そのものが、既存の法学会に満足できない人たちが集まって作ったものだ、という誕生秘話に関係しています。不文律になっている「純粋の法学者を会長にせず、法学に関心を持つ他の分野の方にお願いする」というルールは、今も生きています。「東大法学部出身者はできるだけご遠慮願う」という(差別的)ルールは、さすがに自然消滅したようですが、当初「創立メンバーである私には適用されないのか?」と問うた時に、「林さんは東大出身者には見えないから」という答えが返ってきたことは、今も鮮明に覚えています。
もう1つの鍵は、技術の発展がドッグ・イヤーで進む限り、「事が起きてから逐次的改善を図る」という従来の方法論では、太刀打ちできないとの理解が共通認識になりつつあることです。これはセキュリティの世界では当たり前のことですが、法学はそうではないと思っていた私が遅れていたことを、今回の研究大会で教えられました。
中でも、最も保守的であると思われ、また「謙抑性」という言葉で、保守的であることが期待されてもいる刑法の分野で、「人工物にも倫理がある」「人工物の責任を問う」といった議論が進んでいることを知ったのは驚きでした。私たちの次の分科会は、「ロボットの利用と刑事法分野における課題」というテーマでしたが、そこでの議論は「伝統的発想の延長線上で考える」派と、「全く新しいパラダイムを追い求める」派に、分断されているかに見えました。
しかも、新パラダイム派の源流が、1999年の Latour (邦訳は2007年『科学論の実在―パンドラの希望』産業図書)にあるらしいのは別の驚きでした。というのも、私の主張のうち「情報法は有体物の法と連続している面もあるが、不連続(断絶)の面もある」「占有できない情報については、主体と客体を峻別する法制よりも、その関係性を極める必要がある」といった構想は、既に20年近く前に提示されていたのですから。
・先駆者は必ずいるが、自分の言葉に変換するのが難しい
学者になって痛感するのは、「こんなことを言った人はいないだろう」と思っても、必ずと言って良いほど、先行研究があることです(先行研究者は外国人の場合が多く、日本人の突出した先行者が少ないのが残念ですが)。今回私は恐る恐る「主体・客体峻別論は、そろそろ限界にきているのでは?」と問題提起したに過ぎませんが、先行者はとうの昔に「人間と機械を対立項として捉えるのは間違っている。人間の行動も機械を介してなされるのが常態であり、それが一般化すれば人間の行動様式さえ変える。つまり、人間と機械は相互浸透の関係にあるのだから、その限りで機械も道徳と無縁ではいられない」と説いていたわけです。
Latour (とその後のVerbeekなど) を読んでいれば、「こんなことを言っても大丈夫か?」と悩む必要はなかったわけで、更に進んだ議論が展開できたかもしれません。しかし逆に、悩む必要がない分「自分の言葉で考え、かつ語る」ことができなかったかもしれません。いずれにしても私にとっては、このような事実を知ったことが、今研究大会の最大の成果と言えます。
しかし問題は、そこから先です。帰京後すぐに関連図書を入手して読み始めましたが、これらの先行研究を十分消化し、自分の言葉で語れるようになるには、月単位ではなく年単位の月日が必要かと思われます。すると、「遅くとも80歳前には引退しよう」と考えてきた路線を変更せざるを得ないかもしれません。
前述の登壇者だけのメーリング・リストに、「興味をかき立てられたので、私の引退時期も『自然遅延』するかもしれません」と投稿したら、複数のメンバーから「歓迎です」という返信をいただいたのは、嬉しいことに違いありませんが、家庭の状況を顧みると複雑な心境です。