林「情報法」(9)

理論構築は孤独な作業

 情報ネットワーク法学会で楽しい時間を過ごしたことは、逆に「理論構築は、やはり1人でするしかない孤独な作業である」ことを思い出させてもくれました。

・人と情報との関係に4つのパターン

 今回の私の問題提起は、「情報は誰のものか、どこまで排他性を主張できるのか?」と題するものでした。そこには、有体物と無体財、主体と客体、権利の本質と排他性の強弱など、複雑な要素が入り混じっていますが、法律が専門でない読者に理解していただくための第一歩は、以下の表に行き着くでしょう。つまり、自然人(に AI を加えたもの)と情報との関係には、4種類があると考えるのです(拙著では3種類でしたが、その後 AI を加えました)。

自然人(+ AI)と情報との関係

 まず ① の「自然人特定情報」は、従来のように「自然人が主役として情報の扱いを決める」のではなく、全く逆に「情報から自然人が規定されたり特定されたりする」ことを示しています。DNA 情報が私を規定するのが典型例ですが、それは一般的には「一意に決まる」ものと理解されています。しかし実際には、一卵性双生児の場合でも完全に一意とは限らない部分が残り、却って ID 情報のようなものの方が、「一意性」が高い場合があります。プライバシー保護に熱心な論者が「番号」のような無機的なもの(シャノンの世界)に敏感なのも、このような事情から理解できます。

 表の ② は、「当該情報が特定個人を示すことがかなりの蓋然性を持っている情報」のことで、私はこのようなケースを「ある情報がある自然人に帰属する」関係として整理したいと考えています。英語の attribution を踏まえたもので、著作権法の「氏名表示権」も英語では同じです。

 このようなケースで、蓋然性が相当高いと考える向きは、その扱いを ① になぞらえて考えようとするので、「所有権アナロジー」に傾きます。他方、蓋然性がさほど高くないと考える向きは、② に固有な扱いが必要と考える傾向があります。個人データ(個人情報という語は事物の性質を曖昧にするので、私は一貫して個人データという語しか使いません)保護のあり方を巡って、保護派と活用派の折り合いがつかないのは、この発想の違いから来ていますので、簡単に妥協点が見つかる問題ではありません。

 表の ③ は、自然人と彼(彼女)が生み出した情報との関係、つまり知的財産における関係性です。この関係は「所有権アナロジー」で処理されてきましたが、それが限界に近づいていることは、既に何度か繰り返した通りです。そして、④ として AI(Artificial Intelligence)に代表される人工物が生み出す情報を追加したのは、AIが創作者になることは、既に実現しているからです。ここまでくると、従来の「法的な主体は自然人に限られる」という人間中心主義は見直さざるを得ないでしょう。

 この表には、従来では「主体」=自然人、「客体」=情報という2分法で説明してきたものを超える要素があり、私としては多くの批判を期待していたのですが、残念ながら登壇者からもフロアからも、反応はありませんでした。

・批判者は不可欠だが、最後は1人で考えるしかない

 さて、前回の記述から得た教訓は、1) 他人の説を理解するのは意外に難しくエネルギーが要る、2) まとまったポジション・ペーパーは相互理解に役立つ、3) その上で討議をすれば理解は更に深まる、というポジティブな側面でした。 しかし上記の問題提起に反応が無かったことに加え、パネル・ディスカッションで水野さんに「著作権保護期間が長すぎるのではないかという、私の指摘をどう思いますか?」と問いかけたところ、「私に聞かれれば、そう思います、で終わってしまいますよ」という答えが返ってきたときに、あることに気づきました。

 それは「相互理解が深まったことは良いが、逆にそこで生まれた同質性が、更なる議論の発展の妨げになるかもしれない」という気づきでした。考えて見れば、同じ時期にほぼ似たような問題意識で本を出版したということ自体、相当程度の「同質性」がある集団と考えるべきで、「同質からは飛躍は生じない」ことに留意すべきだったかもしれません。

 そこで今回は、a) パネル・ディスカッションでは「想定外」の指摘は少なかった、b) 後世に影響を及ぼすような画期的な理論は、大方の賛同を得るよりも大方の反対に合うことが多い、c) それを克服するには、批判者の声に耳を傾けると同意に、最後は「自分で考えるしかない」と覚悟すべきである、といった点を強調しておきたいと思います。

 わが国の法学界では少ないのですが、欧米では共著論文がかなりあり、経済学に至っては共著がデフォルト的とさえ言えます。しかしノーベル経済学賞をもらったカーネマンが、優れた共著論文を量産して史上最高のコンビとされたトベルスキーとの間で、人知れぬ葛藤に悩んでいたと知ると(マイケル・ルイス、渡会圭子訳『かくて行動経済学は生まれり』文芸春秋、2017年)、レベルが低い私もそれなりに思い当たるフシがあるのです。

 彼らも、「良き批判者」としての相方の議論に触発されて、更に斬新なアイディアが浮かんだことは事実でしょうが、それには「適度な距離感」(arm’s length relationship)が保たれることが不可欠だったし、最後はそれぞれが自分自身で考えるしかなかったと思われます。

・シャノンとウィーナーという先駆者

 ところで、表の中に複数回シャノンとウィーナーが出てきたことに、違和感を覚える方もおられたかもしれません。しかし両者にフォン・ノイマンを加えた三者が、今日の情報科学の基礎を築いたことは、大方の認めるところでしょう。しかも、シャノンとウィーナーの説を融合すれば、極めて今日的な問題状況が浮かび上がってくるのです。

 ヒントを与えてくれたのは、ある学会で稲見昌彦教授(情報科学)が、シャノン界面(情報世界と物理世界の区分)とウィーナー界面(制御できるものとできないものの区分)で、世界を切り分けることができないかと問題提起したという、ジャーナリストの長倉克枝さんの投稿です。これを私流に図示すると、以下のようになります(長倉さんあるいは、稲見さんの図式化とは若干異なります)。

シャノン界面とウィーナー界面

 つまり世界を、物理世界と情報世界、制御可能と制御不可能という2軸で分けることによって、人間がどの部分を制御できているか、今後制御が必要になるのはどの部分かが分かってくる点に、図式化の意味があります。割り切って言えば、人間はほとんどの人工物を制御可能にしてきましたが、今後の発展が見込まれるセンサーや AI(特に、自己学習するAI)については、制御のあり方自体を検討すべき段階にあると言えるでしょう。AIが物理世界と情報世界にまたがっていることも、課題の重要性を暗示しています。

 しかも、この表がすべてをゼロかイチかで割り切っていると考えることも危険です。リスクをゼロにすることは不可能なので、リスクを最大限低減してもなお最後まで残るもの(residual risk)を忘れてはならないからです。科学者であるウィーナーは、この点を十分理解していたと思われます。その著『サイバネティックス』(『CYBERNETICS: or control and communication in the animal and machine』)の日本版(現在は、池原止戈夫・弥永昌吉・室賀三郎・戸田巌訳『サイバネティックス』岩波文庫、2011年)に寄せた序文の中で、次のように述べているからです。

 われわれの状況に関する2つの変量があるものとして、その一方はわれわれには制御できないもの、他の一方はわれわれに調節できるものであるとしましょう。そのとき制御できない変量の過去から現在にいたるまでの値にもとづいて、調節できる変量の値を適当に定め、われわれに最もつごうがよい状況をもたらしたいという望みがもたれます。それを達成する方法がサイバネティックスにほかならないのです。(「第1版」に際して)

 このように、AIがどこまで制御できるか、どこまでの制御を認めるべきか、更にはその法的責任はどうあるべきか、などに思いを致した先人がいることは、心強い点があります。しかし、その先は自分自身で考えるしかないのでしょう。そのような思いを抱いた学会でした。