「法と経済学」という方法論
私は学者になって20年経ちますが、ビジネスマンとしての経験は33年もありますので、何かを分析するに際しては、まずは「実態」を直視することとし、先に「方法論」を考えるといった思考法は取りません。今でこそ、だんだんと学者らしくなってきましたが、転向当初は「林さんは、まず自分で筋道を立ててから、それに合った方法論を見つけてくる」と言われたほどです。
しかし誰しも好みの発想はあるもので、私の場合のそれは「法と経済学」的アプローチということになるでしょう。分科会でも松尾さんから「法と経済学的思考の痕跡がある」と指摘されましたが、それは当っていると思われます。
・民営化の理論武装から始まる
私が「法と経済学」に傾く理由は、私が学者に転向した理由と、ほぼ重なっています。
1982年の2月に私は、当時の電電公社の計画局総括課長を命ぜられましたが、従来このポストは電話等の普及の長期計画と、単年度の設備計画をまとめる職位でした。しかし、当時の電電公社は電話の普及が一段落する時期で、その後何をコア・ビジネスにするかが見通せない状況にあり、加えて日米調達協定によってアメリカ製品の購入を要求されるなど、国鉄改革と一体となった民営化論争の渦中にあって、事業のあり方全体の見直しを迫られていました。
しかも民営化の論議は、国の財政にとって緊急の課題であった「国鉄の赤字をどうするか」という視点から論じられること(経営論的民営化論)が多く、三公社という概念に引きずられて電電公社問題が論じられるという「受け身」のものでした。そこで私は、「そもそも何のために民営化するのか」という答えを、経営論ではなく「電気通信ビジネスが将来どうなるか、どうなるべきか」という視点の中(産業論的民営化論)に見出すべく、経済学を独学で学び、また経済学者との交流を深めることで、理解を得ていく努力を始めました。
その際、民営化後の市場秩序をどうすべきかについては、IHIの社長から電電公社の総裁に転じた真藤恒氏が、造船技術者だった経験を踏まえて「造船業と旅客(や貨物)船運送業は別のビジネスだということを、アナロジーにして考えよ」と指示していました。そこで私は、「交換機や線路といったインフラを所有して事業を行なう者」と、「それらを借りてサービスを提供する者」を分けて考えてはどうかと提案しました。私は前者を「1次キャリア」、後者を「2次キャリア」と命名した(『インフォミュニケーションの時代』中公新書、1984年)のですが、これは後刻電気通信事業法に生かされ、「第一種」「第二種」電気通信事業という区分になりました(この区分自体も、2004年施行の法改正で消滅しましたが)。
このように私は、「新しい法体系を作る」という作業に偶然引き込まれたため、法解釈論より先に立法論を経験することになり、また同時に「法が欠けているときには、他の学問の知恵を借りるのは当然」と考えるようになりました。事業法(産業法)を作るのであれば、経済学の知識を借りることに、何の躊躇もなかったわけです。
なお偶然ですが、民営化を目前にして電電公社の広報部が「テレコム社会科学賞」論文を募集していたので、私は「情報通信産業の生成と新産業秩序」というタイトルで応募し、受賞5編の1つに加えていただきました(前出の中公新書は、この論文を中心にリライトしたものです)。これが、その後経済学で博士号をいただき、学問の道に転向するきっかけになりました。
・経済学に行き詰って再転向
このような経験を生かして、私は学者になり、しかも慶応義塾大学という伝統ある大学に職を得ることができました。しかし、経済学者として一生やっていけるかと考えた時に、いかにも「原始的蓄積」に乏しいことに気付かざるを得ませんでした。というのも、私はもともと法学部の出で、当時の法学部の経済学関係の講義はすべてマルクス経済学系の教授が担っていましたから、いわゆる近経の教育は一切受けていないのです。
加えて、経済学をやっているうちに、次第にその限界を感ずるようになってきました。というのも、経済学は homo economicus(合理的な判断をする経済人)を大前提としていますが、その前提自体が疑わしい上、合理性を貫徹することが社会を平和で豊かにするかどうかにも、疑いを持つようになったからです。私の経済学の知識がもっと深ければ、カーネマンのように合理性を疑った経済学もあり得ることを、もっと早く知ることが出来たかもしれません。そうすれば私は、行動経済学者になっていたかもしれませんが、当時はその知識さえありませんでした。
そして私がやっていた経済学は、「公益事業論」と呼ばれてきた産業分野が、「ネットワーク産業」とでも呼ぶべきものに変質したのに合わせて、「規制の経済学」として発展させたものでした(私の京都大学での学位論文は『ネットワーキングの経済学』NTT出版、1989年)。これは経済学でもありますが、法学的要素も併せ持っており、私が法学に再転向するには、プラスになってもマイナスになる要素はありませんでした。
かくして私は、慶應から情報セキュリティ大学院大学に移るころから、経済学よりは法学を重視するようになり、学問的な方法論としては、「法と経済学」を明示的に採用するようになりました。なお、その際、再転向する以上、法学でも学位をいただくべきだと考え、『情報メディア法の研究』(後刻再編集して『情報メディア法』東大出版会、2005年)で慶應義塾大学から博士(法学)の学位をいただきました。周りには、ダブル・ディグリーに懐疑的な人もいましたが、私のように大学院の課程を経ていない者にとっては、学位は学者になるための、最低の認証プロセスではないかと思っています。
・法と経済学に3つの流派
しかし、同じ「法と経済学」という名前で呼んでいるものの中に、① 法の経済分析、②法解釈における経済学の活用、③ 法学と経済学の学際的交流という、大きく分けて3つの流派があることにも、注意していただきたいと思います(拙編著『著作権の法と経済学』勁草書房、2004年、第1章)。
① の「法の経済分析」とは、この学派の始祖であるリチャード・ポズナーの主著である『Economic Analysis of Law』(初版はLittle Brown, 1973年)の方法論を引き継いだもので、現在もEasterbrookなど有力な論者がいます。この流派は、ミクロ経済学の諸概念を法に適用するとどうなるかを論ずるもので、ここでのLawは法学ではなく、考察の対象としての「法」であるにとどまります。いわば、経済学が法学に帝国主義的侵略を試みたものです。
② の「法解釈における経済学の活用」は、ポズナーほど過激ではありませんが、ミクロ経済学の手法を主として法解釈に生かそうとするもので、キャラブレイジ(前述のポズナーやイースターブルックも含め、経済学出身で連邦控訴裁判事です)の『The Costs of Accidents: A Legal and Economic Analysis』Yale University Press. 1970年)が代表格です。この本の副題からも分かるように、ここではlegal analysisとeconomic analysisが対等の位置にあります。
③ の「法学と経済学の学際的交流」は ② の立場を更に進めて、法学と経済学が学際的交流を図ろうとするもので、私の立場です。このように考える背景には、法学教育の日米の差が反映されています。
アメリカのlaw schoolは学部を持たない大学院なので、半分以上の院生は経済学部から進学し、law and economicsがいわばデフォルトになっているのに対して、わが国の法科大学院は法学部と併存しているため、一度も経済学を学ばないまま法学を納める方がデフォルトになっています。そこでは ① や ② のような進んだ交流は望めませんが、かといって交流無しですまされないほど、現在の経済社会は複雑化しています。そこで、私のように独学で経済学をやっても良いから、何らかの形で交流を促進したい、というのが私の意図です。
私が入学した当時の東大文科一類は法学部か経済学部か、いずれかに進学するコースで、おかげで私は多くの経済学者と知り合いになれました。学問が進化すれば分化が進むのはやむを得ないことですが、複雑な事象を読み解くには学際研究が不可欠で、法学はまさに現在その苦労を前にしているのではないでしょうか?