林「情報法」(11)

品質表示偽装の情報法的意味

 これまで10回にわたって、情報ネットワーク法学会での議論を中心に記述してきましたが、それらは「情報は誰のものか、どこまで排他性を主張できるのか?」というテーマを巡るものでした。これは『情報法のリーガル・マインド』の主要な部分ですが、その全てではありません。また、従来の分類法では、情報法の客体である「情報」について論ずれば、その主体の方も議論してみたくなります。

 しかし、それでは「情報法」の一部を強調する印象を拭えず、それ以外の要素を見えにくくする恐れがあります。そこで今回からは話題を変え、主体―客体関係以外の論点について短いコメントを加えていきましょう。まず昨今話題になっている、製造業の品質保証に関する偽装あるいは手続き違反について、情報法の観点から考察を加えます。

・製造業で相次ぐ品質保証関連の偽装

 2017年9月29日に日産が、乗用車出荷前の最終検査(完成検査。この部分は本来国が行なうべきところ、メーカーに委託されている)を資格のない社員に担当させていたため、約6万台(その後120万台に拡大)もの新車をリコール(回収・無料修理)すると発表して、世間を驚かせました。その後、有資格者の印鑑を流用するにとどまらず、データを改ざんしたり、資格試験でも不正が行われるなど、一流企業とは思えぬ対応が次々に判明しました。どうやら増産に見合った検査員を配置できなかったのが原因のようですが、トップと現場の意思疎通を欠いた不祥事の影響は大きく、品質管理等の国際規格の認証取り消しや大幅な販売の落ち込みとなって現れています。

 これだけでも驚きのところ、10月9日には神戸製鋼が、アルミや銅製品の強度を改ざんしたまま販売していたことを、同月28日にはスバルでも、日産と同様の無資格検査が30年以上も続いていたことを発表。11月23日には、三菱マテリアル系の2社が、自動車部品などの製品データを改ざんしていたと発表。同月28日には、東レの子会社でもタイヤ補強材などについて、品質データを不正に書き換えていたことが発覚するに至りました。

 ここまでくると、ごく一部の製造業だけが疑われるのではなく、日本企業全体の品質管理のガバナンスに、疑いの目が向けられても仕方ありません。特に東レは、経団連会長の榊原氏の出身母体(現在も相談役)でもあり、経団連は約1,500社の会員企業や団体に、品質に関するデータの改ざんなどの不正行為が無かったか調査依頼しましたが、結果がまとまるのは新年になるでしょう。

・製造物でも「品質のすべてが価格に反映される」訳ではない

  この事例には、以下のように多くの論点が含まれています。

 ① 国から委託された条件を守らなかったこと、② 社内規定に反して(慣行として)資格のない者が検査していたこと、③ 品質管理に関する第三者認証を得ながら、その条件を守らず消費者(あるいは取引先企業。以下同じ)を誤認させたこと、④ 消費者に危険を及ぼす恐れを生じさせたこと、⑤ 現実の事故が発生していないとすれば、そもそも設定された保証基準がオーバー・スペックだった(その結果「高いもの」を売りつけていた)疑いがあること、⑥ 規則違反の情報がトップに上がり対処するまでに時間がかかりすぎたこと、⑦ またSNSで公開された後で情報開示するなど、広報活動のまずさが目立ったこと、⑧ 上記の要素が全体として「日本の製造業の品質管理はいい加減だ」という印象を与えたこと。

 マス・メディアの報道は概ね ⑧ を強調するもので、それは日本経済全体の大問題ですから当然としても、その解決策を探るには「情報法という視点」が必要かと思います。問題設定自体を簡素化すると、a) 「品質管理情報」は、検査や第三者認証などの「手続き」に担保されて初めて「信頼すべき情報」になる、b) 「品質管理情報」を偽装したり紛らわしい表示をすることは、この基本から逸脱する行為で重い社会的制裁に値する、c) そのような意識改革を推進するとともに、それを担保する制度を確立すべきである、という3点になるでしょう。

 私たちは日常の経済取引において、品質と価格という2つの要素を頭において「買うか買わないか」を決めています。ところが、経済学が品質の扱いを無視して(実際には、品質を扱う理論を見出せなかったために)「品質は価格に体現されている」という強弁を続け、法学もそれに従ってきました。しかしそれでは「いかにもコスト・パフォーマンスがよさそうに見えるが実は品質が良くない」商品の利益率が一番高いことになって、長期的には「悪貨が良貨を駆逐する」弊害を免れません(いわゆるブランド品の偽物が後を絶たないことを考えてみてください)。 

 製造物(あるいは人工物)という有体物の場合には、「品質は使えば分かるから誤魔化しようがない」という迷信がはびこっているのも問題です。現に、製造物に「品質保証書」がついていることは、その性能(通常の使用法)とは別に、逸脱(異常状態)に対処する手立てが必要なことを暗示しています。つまり「すべての品質が価格に反映される訳ではない」ことと、「モノ自体」と「品質情報」は一体不離の関係にあるが同時に別物でもあることを、忘れてはなりません。

・情報財については品質保証の手続きが大切

 製造物(有体物)とは違って情報財については、事態がより複雑になります。価格よりも品質が大切で、しかも製造物のように見たり触ったりすれば推測できる部分はごく限られています。むしろ逆に、情報財を試用できれば購入したと同じ結果になる場合もあります。映画やテレビ番組の予告編では、ごく「さわり」の部分だけを見せるのが限界で、かなりの部分を見せてしまえば売却したと同じです。

 このようにintangibleな(目に見えない)情報財については「製品情報とは独立して、品質情報をどのように定型化するか」「情報そのものが定型化できなければ、その生産(創作)プロセスを定型化できないか」「その違反に対して、どのような制裁が望ましいか、また実効性があるか」といった難題を抱えていることになります。

 実は今回の不祥事を、私は複雑な心境で眺めています。というのは、このような事件が起こるであろうことを、『情報法のリーガル・マインド』で予見していたとも言えるからです。同書における章立ては、「第1章 情報の特質と法のあり方」、「第2章 法的規律の対象としての情報:有体物アナロジーの工夫と転回」、「第3章 品質の表示と責任:情報による品質保証の可能性と限界」、「第4章 情報法の将来:情報によって法律行為を規律する」、となっています。そして、類書が「情報法」のテーマだとは思っていない第3章に、70頁(全体の4分の1)近い紙幅を費やしているからです。「先見の明があった」とも言えるので、いささか誇らしい気持ちと、「やはり起きてしまったか」という失望とが、入り混じった複雑な状況にいます。

 このように「品質表示と責任」を情報法の重要な要素として扱ったのは、世間一般では「見た目では品質が分からない」ことを(あきらめに似た気持ちで)所与とし、それを担保する仕組みに対しても「たかが手続きではないか」といって軽視する声が多いことに反発を覚えたからです。この点に関する感度は、日本と欧米(特に英米)との間に対照的とも言えるギャップがあります。

 わが国は、匠(熟練工)の個人技や組織に内蔵された「暗黙知」を重視する反面で、それをマニュアル化して誰でも使えるようにすることに消極的ですし、その技に名前を付けることも考えません(トヨタの「Just-In-Time」は米国が付けてくれた名前です)。他方、英米では手先が器用な人が少ないのか、匠の技よりも「誰でも一応のことが出来る」ことを重視し、法律のdue process of lawに倣って、手続きを重視します。

 どちらが優れていると一概には言えませんが、ISO(国際標準化機構)が技術標準を超えて経営標準をも包摂することを目指すほか、政府調達においてセキュリティを担保するには手順を守らせるしかないなど、「情報法」においては「実体法」と同程度かそれ以上に「手続法」が大切であることを、忘れてはなりません。