小林「情報産業論」(4)

「シンボル」を巡って

 かれら情報業者がすべてシンボル操作の技術的熟練者であったということは当然のことであった。(p.42)

「情報業における技術の発展」の節で、梅棹は、「情報技術者はシンボル操作の熟練者である」と断言している。

しかし。

何度読んでも、ぼくには梅棹の「シンボル」という言葉の使い方への、いわくいいがたい違和感がぬぐいきれない。どうして梅棹は、ここで「シンボル」という言葉を用いたのだろう。「コード」ではいけなかったのだろうか。「サイン」や「マーク」ではいけなかったのだろうか。

ちょっとググってみても、symbolという言葉の訳語には、主に「象徴」「記号」という2つの言葉が当てられているようだ。一方、「記号」という日本語に対応する英語としては、code、sign、mark、symbolなどがある。

洋の東西を問わず、どのような言葉も、その言葉が使われた時代と地域の文脈(コノテーション)に制約される。おそらく、時代や地域、習得してきた背景知識の違いが、梅棹とぼくのsymbolと象徴の理解の違いを生んだのだろう。

とはいえ、『情報産業論』を読み進む上で、梅棹とぼくとの間に立ちはだかる言葉の壁は、何としても乗り越えておきたい。

ぼくにとって、象徴という言葉は、まず「日本国統合の象徴としての天皇」という日本国憲法の文脈で入ってきたように思う。この点では、梅棹が『情報産業論』を書いた1962年ごろも、「象徴天皇」という言葉は、新憲法の根幹をなす言葉として、社会に受け入れられていたであろうことは、疑いを得ない。だとすれば、梅棹にとっては、シンボルという言葉と象徴という言葉の結びつきは、それほど強固なものではなかったのかもしれない。

一方、1970年代に学生時代を過ごしたぼくにとって、象徴という言葉とsymbolという言葉の結びつきは、抜き差ししがたいほど強固なものだった。

エルンスト・カッシーラの『象徴形式の哲学』(Philosophie der symbolischen Formen)やカール・グスタフ・ユングの『人間と象徴』(Man and His Symbols)など、象徴という言葉には、これらの書物のタイトルと強く結びついていて、ある種の哲学的、分析心理学的匂いのようなものが、染み込んでいた。もう一つ、磔にされたキリスト・イエスの象徴としての十字架を付け加えてもよい。とはいえ、これは、ユングの文脈の範疇にあるかしらね。

ぼくの、梅棹が使うシンボルという言葉への違和感は、おそらくは、このあたりにあるのではないか。

 ・「シンボル」を「記号」と読み替えてみる

梅棹においては、シンボルというカタカナ語は、単純に記号に対応する英語としてのsymbolだったのではなかったか。だとすれば、ぼくにとっては、シンボルという言葉よりも、記号という日本語だったり、codeという英語だったりの方が、ずっとしっくりする。

もうひとつ、ぼくの言葉遣いを制約しているものに、符号化文字集合がある。この言葉は、coded character setの訳語なのだが、符号化する対象は、自然言語の記述に用いられる文字(character)だけではなく、まさに、symbolやicon、pictogram なども含まれる。ぼくのなかに、情報として操作される対象は、symbolだけではありませんよ、という無意識の思いが働いているのかもしれない。

梅棹とぼくの、シンボルという言葉の受け止め方の違いを、このように整理した上で、当面、梅棹のシンボルということばを、記号(code)と置き換えた上で、読み進めていきたい。

「情報とは、すべて記号によって伝達されるべきものである」

うん、すっきりした。

シャノンの情報理解は、ソシュールの言葉を借りると、指し示されるもの(signifié)を棚上げして指し示すもの(signifiant)の伝達の正確さのみに注目したものと捉えることができる。

もちろん、梅棹は、シャノンとは異なり、記号や記号の一種としての言葉の背後にある指し示されるものをも視野に含めた上で、操作という言葉を用いている。

梅棹が、張儀(本文中では、「諸子百家時代におけるひとりの青年情報業者」として言及されている)について語るとき、張儀の舌(メディア)は、張儀の人生・生命を担うものとして、意識されていたに相違ない。

・物理空間と情報空間の接面

いささか話が飛躍する。

ニュートンは、その『自然哲学の数学的原理』(Philosophiae naturalis principia mathematica)を幾何学的思考によって著した。しかし、ニュートン力学が花開くのは、この著作が海を越えてフランスに伝わり、ハミルトンやラグランジェによって、代数学的に定式化され、形式的記号操作が容易に行えるようになった後のことだった。そして、このような記号操作と数値計算をコンピューターが行えるようになり、ついには人類を月に送り込むことが可能となった。

1969年人類は、初めて月面に足跡を残す。梅棹が『情報産業論』を発表した1963年は、アメリカが、その威信をかけてスプートニク計画を追撃し始めたころだった。

我々が生命活動としての生を営む物理世界の法則が、ある数学的定式化を得ることにより、機械的操作が可能となり、膨大な計算量をこなすことが可能となる。その結果が、物理世界に、新たな可能性の地平を拓く。梅棹が『情報産業論』を著し、ぼくが少年時代を過ごした1960年代は、そのような関係が楽天的に捉えられていた時代だった。

そんな時代にあって、梅棹は、情報科学の未来にも、そして、情報科学がもたらす物理世界の未来にも、大きな夢と期待、そして、混乱と暗い未来への一抹の不安を抱いていたに相違ない。

ぼくのこの原稿が掲載されるサイトは、矢野直明さんが主宰するするサイバーリテラシー研究所のホームページ(サイバー燈台)だ。矢野さんは、以前からリアルワールドとサイバーワールドの接する、もしくは、接しない接面についての議論の重要性を説き続けている。

この問題意識は、梅棹の問題意識とみごとに符合する。

すなわち、記号的描写と機械的な記号操作による物理世界の豊潤化への期待と、物理世界との接面を見失った記号的世界への一抹の不安。

しかし、梅棹の不安は、千年紀の境を越えた今、多くの人々の共通の不安となっている。

ボードリアールがシュミラークルの議論で提起した問題やチューリングやサールが提起した人工知能の問題から、SNSが引き起こす物理世界から乖離した人と人とのかかわり方や、仮想通貨の問題に至るまで、物理空間と情報空間の接面に横たわる問題は、枚挙にいとまがない。

梅棹が情報技術者をシンボル操作の熟練者と言った時、梅棹の脳裏には、シンボルによって指し示される拡がりと深みをもった豊かな物理世界が存在していた。ぼくは、いま、こう確信している。