喫茶店にて
椅子のアフォーダンスについて、もう少しこだわりたい。足腰の衰えた私は、外出時には椅子を探し求める。もっとも手軽な解決法は喫茶店の利用。ただし、問題がある。その店の椅子が、私の変曲した姿勢になじむかどうか。クッションの硬さ、背もたれと肘かけの有無、キャスターの有無、座面の高さ、など。いずれも、事前に調査はできない。
近年は、ほとんどの店がセルフサービス。私はすでに片手を杖に奪われている。残る1本の手で、トレーを持ち、そこにコーヒーを載せ、さらに財布を操つらなければならない。もし、店が混んでいれば、トレー上のコーヒーが零れて他の客人の衣服を汚さぬように、片手に杖、片手にコーヒーを持った姿勢のまま、こり固まっている自分の身体を制御しなければならない。つまり、椅子のみではなく、店の空間的な仕切りもアフォーダンスをもつ。
店が混んでいる場合には、あらかじめ席を確保しておかなければならない。ここは私の席だよと主張するために、私たちはそこに何かを置くという行為をする。その何かには何が有効か。目立つものがよいが、たとえばカバンは、万に一つではあるが、だれかに攫われてしまうというリスクがある。だからといって、読みかけの新聞などは、屑と間違えられてしまうかもしれない。いつぞや、派手な柄入りのハンカチーフを置いた人がいたが、このへんが境目かな。ハンカチーフはプロクセミックスの強化機能をもつということか。ここでも、アフォーダンスとプロクセミックスとの衝突が生じる。
前回、ワンボックスカーの3人がけ座席について喋った。ここで、車を替えてより大型のバンにしたらよいだろう、という異論がでたかもしれない。だが、私の住んでいる街の道幅は狭い。狭い道のアフォーダンスとしてワンボックスカーが採用されたともみえる。町の顔役に聞いたことがあるが、この街の道幅の狭さには歴史があり、道幅は人力車がすれ違えればよい、という発想があったからだという。とすれば、1世紀以上まえには、当時の乗物のもつアフォーダンスに応じて狭い道が建設され、それが半永久的に残っている、ともみえる。道路というインフラストラクチャーにもアフォーダンスあり、ということか。漱石が『硝子戸のなか』でふれていた公衆便所は、いまも同じ場所に残っている。