名前はだれのものか
地図から地名へと追いかけてきたので、つぎは地名から氏名へとたどっていきたい。
電話をかける。「こちらナワです」。相手が聞き直す。「お名前は」。「ナワです」。「もう一度」。・・・。こんな問答を数回くりかえしたあと「名前のナと平和のワです」。これは私にとって日常的な現象。たしかに、私の姓は短くかつ子音がないに等しいために、聞きとりにくいのだろう、と思う。
私の知人に本田さんと本多さんと誉田さんがいるが、皆さん、私の場合と理由は違うが、同じようなご苦労をなさっているのではないかな。漢字に「アルファのA」、「ブラボーのB」というようなフォネティック・コードのないことが厄介。
フォネティック・コードで思い出したが、かつてアマチュア無線では、ユーザーには「暗号を使うな」という縛りが課せられていた。当時、この暗号には俗語も含まれており、うろ覚えだが、たとえば養毛剤だったかの商品名を「この先、凍結」という意味に転用することについて議論があった。
スマホが、そしてSNSが日常的な環境に組みこまれた現在、この規制はとうに消えてしまったかと思うが、もしいまでも生きているとすれば、「いいね!」も、親指の絵文字も、暗号になるのでは。
ここで本題に入る。地名の一意性、そして不変性を確保するためには、その番号化がよいだろう、と――これが前回の主題であった。この論議の先に、戸籍名の扱いとその番号化とがある。
まず戸籍名について。それを表現する字体は、その初期値のまま世代を越えて継承される(婚姻、養子縁組といった例外はあるが)。その字体が権威ある漢字辞典に載っていなくとも、俗字、誤字であっても、本人はそれを改めることはできない。不満な人は芸名、筆名、字(あざな)などを使う。屋号というものもある。ハンドル・ネームもある。つまり戸籍名は本人のものではない。それは自治体のものらしい。諸説あるようだが。
つまり、戸籍名は不変性を確保している。だからといって、戸籍名はその一意性を保証するものではない。同性同名の方は多い。フェイスブックで友達リクエストをするとき、複数の同姓同名の候補者が現れ、そのどれが当の本人かに戸惑うことは、だれもがもつ経験だろう。
とすれば、一意性を確保するためには、氏名についても、その番号化が、つまり個人番号が、必要という流れとなる。ただし、個人番号をとる手順は厄介。このためには本人確認のためのトークンが必要である。それは旅券、運転免許証、健康保険証など。(そう、私の少年期には米穀通帳という身分証明書もあった。)
いっぽう、旅券、運転免許証などを入手するためには個人番号カードなどが必要。ということで循環論法になる。ここでは「クレタ人は嘘つきだとクレタ人は言った」などとややこしいことは考えない。
循環論法から脱出するためには、一意性、不変性を保証できる身分証明用のトークンを探さなければならない。それは失ってしまったり、盗まれたりするものであってはダメということになる。つまり、本人自身を、たとえば本人の容貌を、あるいは本人の遺伝子配列を、身分証明用のトークンとしなければならない。
この点で、氏名は、そして個人番号も、本人自身の識別用としては十分ではない。そのカードがどこかに紛れ消えてしまうこともあり、そのデータが他人にコピーされることもありうるから。
作家のホルヘ・ルイス・ボルヘスはこの面妖な「私」の識別法について語っている。「私は私自身のなかにではなく,ボルヘスのなかに留まることになろう」と。ここにいう「ボルヘス」とは本人識別用の戸籍名、あるいは個人番号に、また「私」とは本人の容貌、あるいは遺伝子配列に相当するのかな。あるいは逆かな。われながら混乱してきた。
話をもどす。戸籍名は本人のものではなかった。しからば個人番号についてはどうか。それには住民基本台帳の番号とマイナンバーとがある。前者は本人にも秘匿されていたが、後者は本人はおろか第三者にも開示されている。後者は前者からあるアルゴリズムにしたがって変換されたものであるにもかかわらず、だ。だから前者も後者も本人のものではないことは自明。
そもそも論でいえば、名前は「呼びかける」というアフォーダンス(第2回)を持っている。だから、孤立しがちな拘忌高齢者(KK)としては自由に使いたい。だが、どうだろう。近年、町内会名簿、同窓会名簿などは私たちの周辺から消えてしまった。私たちの社会が、いつの間にか、プライバシー保護という泥沼に足をとられている。
KKとしては、「まだ名前はない」と猫の真似でもしてみるか。
【参考文献】
ボルヘス, ホルヘ・ルイス( 牛島信明訳)「 ボルヘスとわたし」『 ボルヘスとわたし:自撰短篇集』. 筑摩書房, 2003. p.158(原著 1956)
名和小太郎「納税者番号制度にかんする思考実験」『電子メディアとの交際術』、勁草書房、 p.224 (1991)