名和「後期高齢者」(11)

友だちの友だち

 「友だちの友だち」という関係を6回くりかえせば、地球上のだれとでも知り合いになれるという研究成果がある。ここでの友だちはファースト・ネームで呼び合える仲とされている。研究者の名前をスタンレー・ミルグラム、この現象を「6次の隔たり」と呼ぶ。

 この話を聞いたとき、もう十数年もまえの話だが、私も追試をしてみた。ただし私の目標は2次の隔たりまでたどること、と矮小化した。このために、まず、私とまったく交流のない人、そんな人の自伝を購入し、そこへ登場する人物のなかに私の知り合いがいるかどうか、確かめた。

 その自伝としては、相手が日本人であること、世代が重なっていること、人名索引の充実していること、とした。この条件を充たすサンプルとして、私は柴田南雄の『わが音楽 わが人生』を選んだ。巻末の索引には1000人を超える人名があり、うちほぼ7割は同時代の日本人名だった。

 私自身びっくりしたのは、ここに私の知人が6人も見つかったこと。小学校の同級生のNさん、大学教師であったTさんとBさん、たぶん役所の審議会でご一緒したJさん、飲み友だちだったKさん、そして近所付き合いのもう一人のTさん、だった。Jさんの記憶は消えているが、確かめたら名刺は手元に残っている。つまり私は大作曲家の柴田南雄と「友だちの友だち関係」を6つももっていたことになる。当方はしがない企業人の一員であったにもかかわらず、だ。 

 じつは「友だちの友だち関係」(2次の隔たり)のまえに、「友だち関係」(1次の隔たり)がある。それはファースト・ネームで呼び合う関係、年賀状交換の関係、名刺交換の関係、共同研究者、師弟、ヨガ教室の仲間など。私たちはそれぞれに対して、自己についてここまでは開示、ここからさきは隠蔽と使い分けている。

 なお、本人の氏名は公共領域にあるが(第9回)、その友だちは本人のプライバシーに属する。

 フェイスブックはこのような友だち関係を含む「友だちの友だち関係」を、それも隔たりの次数を制限せずに、捌けるのだろうか。拘忌高齢者(KK)たる私には素直には信じられない。

 それにしても、フェイスブックでは、友だち1000人を超す顔をおもちの方が少なくないのにはただただ感嘆するばかり。モーツァルトの、「さてスペインでは おどろくなかれ 千三人 千三人 千三人」というカタログの歌を、つい連想したりして。

 はっきり言って、友だち1000人の人と友だち10人の人とでは、「いいね」の価値が違うだろう、ということ。そういえばプロスペクト理論もあったよね。たしか、富者と貧者とでは同じ一万円であっても有難みが違うよね、というあの理論だ。「友だちの友だち関係」はどこまで「スケールする」のかな。

 ところで私の場合だが、友だち数は142人、うち77人が1次の隔たりをもつ人、さらにいえばうち5人が80代の方である。だが、80代の方はほとんど黙して語らない。私の本音は同世代の方と㏍としてよしみを復活したかったのに。しかも、ほとんどの方が好奇高齢者あるいは高貴高齢者になっておられるのに。

 これで文章を閉じるつもりであったが、思いがけなくも、フェイスブックに好意的ともいえる意見を発見した。それを引用しておく。

「平生さしたる要用はなきときにも、折々一筆の短文にて、互いに音信を通ずるの習慣を成し来れば、マサカの時の大事に鑑み、片言以て用を弁ずる利益あり。」

 発表は明治29年、著者は福沢諭吉である。\(^o^)/

【参考文献】
柴田南雄『わが音楽 わが人生』、岩波書店 (1995)
アルバート=ラズロ・バラシ(青木薫訳)『新ネットワーク思考:世界のしくみを読み解く』、NHK出版、p.41-62 (2002)
新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く
福沢諭吉「交際もまた小出しにすべし:福翁百話(五十八)」『福沢諭吉全集:第十一巻』岩波書店, p132-134 (1981)