本を棄てる
北大阪地震の報道を聞きつつ、私の脳裏を3.11の記憶がフラッシュバックした。その記憶を私の日記はつぎのように記している。
14時過ぎ、巨大地震、3回揺れる。M8.8(注:翌日9.0と変更)。震度5。長周期の揺れが数10分続く。この住まいはダメかと観念。本(ほぼ半数)とファイル(全部)は棚より落ちる。位牌は仏壇より跳びだす。テレビ台とCDラックは床を滑るが倒れず。鏡(100cm×20cm)が壁より脱落。
このあとで私の苦労したことといえば、棚からこぼれ落ちた多くの本の片付けであった。本には重さがあることをこのときにはじめて痛感した。私はみずからの知力、体力に不相応な量の本を「死蔵」していたこと改めて知った。これは拘忌高齢者(㏍)の宿命だった。ということで、以下、話題を「本の重さ」に移す。
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宗教学者の山折哲雄が語っていた。「人生の重荷、その最たるものは書物」と。たぶん、多くの㏍は同様な愛着を本にもっているのではないか。この愛着は印刷技術の開発される以前からすでに存在し、書物は、たとえ写本であっても、机に鎖で結びつけられていた。大正期には、丸善を通さないで洋書を入手し、それをだれにも貸さない学者がいたという(和辻哲郎の言)。
くわえて、ヒトは高齢者といえども、1日の半分以上は体軸を重力軸に添わせている、という。しかも、骨格も筋力も衰えている。結果として㏍は本の重さに苦しむという体たらくになる。とくに辞書とか美術書のたぐいは重い。私がしょっちゅうお世話になる『広辞苑』(初版)も“Etymological Dictionary of the English Language”も、その重さは2.5キロ弱といったところか。
こんな事情で、退役後の私には、本の終活が重要な関心になった。その実践法の一つとして、地震災害後の書籍の片づけという意識が生じたこととなる。
本の終活には、それを必要とする方がたに寄贈できればよい。だが近年は本が溢れ、くわえてその電子化も増えているので、引き取り手を見つけることが至難の業となった。私はある市役所から、本棚の寄付は歓迎するが本自体はダメ、と言われたこともある。結局は若い友人に、さらにはゴミ廃棄業者に頼み込むとことになる。
本の終活には、まず、棄てる本を選別しなければならない。
(1)厚い本、重い本は棄てる。
(2) 出版年の新しい本、すでに文庫本化されたものは棄てる。
(3) 全集本、シリーズものであっても不必要なものは棄てる。
(4)外国語の本は棄てる。読むために不可欠な辞書が重く、そのフォントも小さいので。
(5)著者より恵与された本は手元に残す。
(6)慌ただしい時期――転居前、退院後、地震後など――を選ぶ。迷いを断つために。
(7)ジャーナルは棄てる、あるいは配布を謝絶する。増える一方なので。
だが、これらの心づもりは乱れがち。手元には、まだ厚さ7センチという洋書(ケルビンの伝記)が残っていたりして。
あれやこれやで、北大阪地震のあとでは、私は大阪地区にお住まいの多くの知友の書庫のありさまが気懸かりだった。そこにMさんからメッセージが届いた。それは乱雑に積まれている本の写真であった。私はさっそく反応した。「あと片付けがたいへんでしょう」と。
同時期、たまたま私はKさんと「本の死蔵」についてやりとりをしていた。死蔵にこだわる私にKさんは適切(?)なコメントをくださった。「死蔵している本の中身がすべて白紙ということもあるでしょう」と。そういえば、ポーランドの作家スタニスタフ・レムは「存在しない本」にたいする書評集を出版していた。とすれば私はムダな苦労をしていたことになる。
Mさんの写真にもどる。Mさんは私のコメントに早速返事をくれた。「じつは、あの写真は平常時の私の部屋の姿なんです」とさ。
もう一つ、大切なことを忘れていた。本をまるまる暗記してしまえば、私は重力場の束縛か抜け出せる。たとえば、ルイ・ブラッドベリは『国家編』『ガリバー旅行記』『種の起源』を暗唱できる人びとがいたと伝えている。ただし、私にとって、これは非現実な解。なにしろ記憶力は単調減する一方なので。
【参考文献】
山折哲雄「私の履歴書①」、『日本経済新聞』,2018年3月1日朝刊,文化欄
和辻哲郎『ゼエレン・キェルケゴオル(新編)』、筑摩書房、(1947)
名和小太郎「“積ん読”の終わり」、『本とコンピュータ』,2期16号 (2005)
スタニスラフ・レム(沼野充義・他2氏訳)『完全な真空』、図書刊行会 (1989)
ルイ・ブラッドベリ(宇野利彦訳)『華氏451度』、ハヤカワ文庫 (1975)