コースの定理と無体財への適用
今回の情報通信学会のうち「国際コミュニケーション・フォーラム」の部分の統一テーマは「データが拓くAI・IoT時代」でした。私たちの基調講演が統一テーマにどれだけ貢献したかは、参加者の反応を待つしかありませんが、その後のパネルディスカッション(基調講演者は参加していません)の最後に、会場からの質問をめぐって意外な展開がありました。今回は、その含意を探ります。
・コースの定理とは
質問の主旨は「パネリストの意見交換はそれなりに興味深かったが、多くのパネリストが指摘した『データのownershipが不明確』という点は、明確にすればよいだけのことではないか。コースの定理によれば、ownershipが取引当事者のいずれにあっても、取引費用がゼロなら交渉の結果、効率的な資源配分が達成される。取引費用がある場合には、ownershipの付与を前提にして、その分担を決めれば解決できるはず」というものでした。
質問者は経済学者らしくコースの定理を前提にしていますが、本欄の読者が全員経済学に明るいとも言い切れないので、まずその定理について補足します。Ronald Coaseは、100歳を超える長生きをして数年前に亡くなったアメリカの経済学者で、1991年にノーベル経済学賞を受賞しています。あまり多作ではないのですが、少ない論文がことごとくユニークで、経済学の発想を根本から問い直すような変革をもたらしました。
中でも有名なのがコースの定理として知られるものですが、それは経済学では「外部性」として、法学ではniusance(権利侵害)として知られるものをモデルにしています。昔の列車は石炭をたいて走行していたので、火の粉が沿線の松を枯らすことがありました。また作物を作る農家と家畜を育てる畜産家が隣人だと、家畜が作物を食べてしまうなどの被害が出ていました。この損害をどちらが負担するかによって、資源配分が適正になったり歪んだりすることがあるか、という問いが議論の出発点です。
法学を学んだ読者なら、「なんということを議論しているのか。公害の分野では既にPPP(Polluter-Pay-Principle)が国際的合意になっており、原因者が費用を負担するのが公平である」と主張するでしょう。しかし、この論文が書かれたのは1960年で公害が世間の注目を集めるずっと前ですし、コースは法的な権利がどちらにあるかにかかわらず、(効率性を第一義とする)経済学ではどう考えるべきかを追求しました。
ここでコースが出した回答が、世間を驚かせました。なんと「企業間に外部性が存在しても、もし取引費用がなければ、資源配分は損害賠償に関する法的制度によって影響されることはなく、また常に効率的なものが実現する」と言い切ったのです。法学者からすれば、「権利がどちらにあるかにかかわらず、経済学的に効率的な解決が可能なので、法学者の出番はない」と言われたように受けとめられた(現在でも、そのような誤解が無くならない)のも無理はありません。
・所有権の存在意義と「法と経済学」
もちろん、これはトリックで、その鍵はアンダーラインを引いた「もし取引費用がなければ」という前提条件にあります。時間が経つにつれて、この定理の真の意味は「現実の世界では取引費用が存在するので、必要なのは、経済システムを構成する諸制度のあり方の決定において、取引費用が果たす(べき)基本的な役割を明らかにすることである」というように理解されるようになりました。
そして、この認識が広がることによって、彼が1937年(コースの定理の論文より23年も早く)に提起した「法人は取引費用節減のために存在する」といった知見が再評価されるようになりました(彼以前には法人の存在を経済学で説明した人はおらず、経営学者が「組織の限界」を議論していました)。このような流れから「取引費用の経済学」という分野が生まれ、「契約の経済学」や「情報の経済学」にもつながっています。つまりコースは、これらの新しい経済学のすべてを生み出したのです。
繰り返しますが、コースの定理は見かけとは反対に「取引費用が無視できない現実の世界では、なぜ非効率が発生し、市場メカニズムがうまく機能しないケースが起こるのか」を解明しようとしたものです。これを法学の面から見ると、「権利の設定が如何に大切か」を示している、と言い換えてもよいかもしれません。
経済学では伝統的に「コモンズの悲劇」(誰も権利を行使できる人がいない共有地では、家畜が草を食べすぎる結果、維持できなくなる)を反証として「所有権」の必要性を正当化してきたのですが、コース以降は「権利の設定が取引費用を節減し、交渉を円滑化させる」とポジティブに説明できるようになりました。コースが「法と経済学」の始祖とされるのは、この面でも当然のことかと思われます。
さて、ここで現実に戻って、先の情報通信学会における質疑です。質問者は、上記で長々と述べた事情を背景に質問したのですが、回答者に経済学者がいなかったこともあって、残念ながら質疑はかみ合いませんでした。そこで私は、極めて異例のことを承知の上で、懇親会の乾杯要員に指名されていた「職権」を乱用して、次のような挨拶をしました。
「(紋切り型の挨拶の部分は省略)。ここでパネルディスカッションの最後にあった質問について一言付け加えることを、年寄りに免じてお許しください。残念ながらご質問者が本席におられませんが、私ならこのような回答をしたであろうということをご紹介します。質問は経済学の伝統に沿ったもので、核心を突いています。しかしコースの定理は情報社会の到来とともに、再検討を求められています。排他性・競合性(法学的には「占有」)が明確な有体物にはコースの定理がそのまま適用可能ですが、公共財的要素(非占有性)がある無体財についても同じように考えることができるでしょうか? 本学会の会員が、この問題に真摯に向き合ってくれることを期待して、乾杯しましょう。」
・若干の補足
本ブログをお読みいただくか、拙著そのものをお読みいただいている読者には、以下のコメントは蛇足かもしれません。しかしマルクス流に言うならば、私たちが資本主義社会の中を、それも産業社会や工業社会の時代を長く生きてきたことは、私たちの思考様式を予想以上に規定しています。その代表格が「所有権信奉」です。インターネットの時代に入っても、いわゆる「サイバー法」を論ずる学者でさえ、その大部分がこの病気から逃れられないでいます。次回以降は、そうした事例を紹介することで、「所有権第一の発想から脱却する」必要性と困難性について、述べていきたいと思います。