お手洗いの広さ、狭さ
ヒトにとって最適な狭さとはどんなものか。こんな取り止めもないことを考えたのは、かつて入院したときのこと。たとえば、お手洗い(以下、WC)の広さ、あるいは狭さ。
患者は、たとえば点滴棒をもってWCを利用する。その点滴の管はなんにでも――扉の把手、ベッドの手摺、衣服の紐、点滴棒自体などに――絡む。
WCは患者ならずとも、ヒトにとって必須の人工空間である。それは時代を問わない。すでに平安時代、紫宸殿には「御手水(ちょうず?)ノ間」があり、そこには多様な「澡浴の具」が置かれていたという。それはサービスの標準化を含む有職故実として定着していた。
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まず、WCの機能について確認しておきたい。私の手元に50年ほどまえに切り抜いた資料がある。それは洋式便器の図面だ。タイトルも出典も著作権表示もなし。
面白いのはこの紙片が便器をコンピュータと比較していることにある。水槽を「主記憶装置」、水や排泄物を溜める部分を「中央演算装置」、排水レバーを「ファンクション・キー」、便器の蓋を「周辺装置」、給水・止水栓を「サージ制御装置」、巻紙ケースを「ソフトウェア」、排水路の清掃用刷毛を「デバッキング・ツール」、そばに置いてあるバケツを「バックアップ・システム」、そして便座を「インターフェイス」としている。くわえて「オーバー・フロー」――インプットとアウトプットによるエラー――として床の上に液体が零れている。隅にはマウスが走っている。現在では、さらにウォシュレットが、その操作盤(大と小、温と冷など)とともに付けられている。ユーザーはこれを日常的な道具として操作しなければならない。
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最近、「誰でもトイレ」が公共空間に設置されるようになった。ここでは狭さにたいする指向は抑制され、多様なユーザー――例、障害者、高齢者、子供連れ――が使えるように、WCは多機能化されている。当然、空間も広がり、WCと人間とのマン・マシン・インターフェイスが複雑になる。このインターフェイスが今回の話題となる。
私は多機能型のWCを使わしてもらったことがあるが、そのときに不具合をしでかした。排水ボタンがどこにあるのか、それを見つけることができず、うっかり間違って緊急呼出しボタンを押してしまったのだった。
このとき、便座に坐った私の体位では排水レバーの位置が背後になっていた。私は排水レバーを体を捩じって探しているうちに、私の衣服のどこかかがウォシュレット制御盤のどこかに触れたらしい。その制御盤の位置だが、壁に貼り付けられていたり、便座の脇に組み込まれていたり、さまざまである。ということで、WCのユーザー・インターフェイスは複雑かつ多様である。
この辺の事情は、たぶん、「ノーマライゼション」、「ユニバーサル・デザイン」、「バリア・フリー」などいう概念を駆使する専門家諸氏がすでに議論されていることだろう。だが、シロウトの私があえて言いたいことは、モノの標準化とともに、サービスの標準化がここに絡んでいることである。
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ということで、WCのインターフェイスは、その狭さ、あるいは広さもかかわるだろう。私は、たった一度ではあるが、茶室のようなWCに案内されたことがある。半世紀もまえのことなので記憶は不確かだが、違い棚があり、床は畳敷、一隅の躙り口のような場所に便器があった。このときに落ち着かなかったことといったら。先に紹介した御手水ノ間が現代にも残っていたということか。私の世代は、たとえば三等寝台「ハネ」の狭さに慣れていたので、狭さに慣れていたのかもしれない。そういえば「坐って半畳、寝て一畳」という言葉もあった。
つまりWCの場合は、空間の広さ狭さも快適さにかかわるインターフェイスとよぶことができるかもしれない。そういえば、建築家のル・コルビュジエも「モジュロール」という生活空間用の尺度を提案していたよね。
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近年、ヒューマン・インターフェイスの関係者のなかで「ユーザビリティ」という理念が検討されている。ここでは、その対象にシステム、製品とともにサービスを含めている。そのサービスは「ユーザーが実現を欲する結果を容易にすることにより、そのユーザーに価値を提供する方法」と定義されている。ここで与えられるユーザー満足度を「ユーザー・エキスペリエンス」と呼ぶらしい。
【参考資料】
河鯺実英『有職故実:日本文学の背景』、塙書房 (1960)
戸沼幸市『人間尺度論』、彰国社 (1978)
福住伸一「サービスエキセレンスに向けた人間工学の動向と関連規格」『情報処理』、 v.59, n.5, p.421-424 (2018)
「「だれでもトイレ」誰でも使える?」、『日本経済新聞』2018年7月6日夕刊、p.5