名和「後期高齢者」(16)

「つねに先生」?

 米国の法学雑誌をブラウジングしていると、よく「レイマン」(layman)という単語にぶつかる。手元の英和辞典を引くと、「聖職者に対する平信徒」「専門家に対するしろうと」とある。念のために『オックスフォード英語語源辞典』にあたってみたが、語源はラテン語かギリシャ語、それ以上は不詳とある。しろうとを自認して、あちこち首をつっこんで喋りたがる私にとって、「レイマン」あるいは「レイパーソン」は気になる言葉。

 知り合いの専門家に聞いてみた。まず非主流派の法学者からの返事。そういえば「レイマン」は日本では聞かないが、英語圏ではよく聞くね。ただしそこに悪意はないようだ、と。つぎに大ボスの医者からの回答。私たちは「患者」(patient)か「依頼人」(client)と呼ぶね。前者は医療サービスについて、後者は介護サービスについて。ついでに中堅の文化人類学者に聞いてみた。自分たちは「レイマン」という言葉を使ったことはないが、「レイマン」と呼ばれることがある、と。

 視点を変えよう。たまたま手元にあった日本老年医学会編の『薬物療法ガイドライン』について、そこに示されていた専門用語をブラウジングしてみた。ここには、難読な、さらには難解な専門用語が頻出する。例示してみよう。壊死、悪心、潰瘍、誤嚥、骨粗鬆症、重篤、蕁麻疹、喘息、蠕動、脳梗塞など。いずれもレイパーソンの日常語として定着してはいるが、それを書けといわれると多くの人は困却するだろう。つまり、このようなジャーゴンを駆使できる人が専門家ということになるようだ。

 ついでにもう一つ。医師は端末からその所見をキーボード入力しているが、それは日本語なのか英語なのか。つまりかな漢字変換なのか、ローマ字漢字変換なのか、あるいは英字英語変換なのか。いずれを選択するかによって、医師という専門家への閾値は違うだろう。(ドイツ語はどうなのかな。『ガイドライン』の文献表には見当たらないが。)

 話はとぶが、私はある病院で治療を受けるかどうか迷ったことがある。それをみて担当医師はいった。あなたが自分で勉強しないかぎり、どの医師の答えも同一だ、医師にはEBM(Evidence-Based Medicine)用の学会編纂のマニュアルがあるから、と。患者の症状が『ガイドライン』の示すフロー・チャートからそれているときには、患者はそのフロー・チャートを完成するために、同意書なるものに署名しなければならない。

 そういえば、私自身、全身に痛みを感じた時のことだ。私は内科→外科→整形外科と遍歴した。このときに、専門科ごとに触診、CT検査などを受けさせられた。私はこのときに理解した。専門家は、病気を専門用語のみではなく、それを患者の身体のなかにおける実体と照合しているのだ、と。これを、小説家のギュスターヴ・フローベールは「医者はみな唯物論者」とまとめている。

 視点を変えよう。しろうとの患者はどのようにして自分の主治医をきめるのか。およそ二つの型に分かれる。自分で探す人、だれかの示唆にとよる人。前者の例として、統計学者Mさんがいる。(私はそのMさんからご自身の闘病記を頂戴した。同病相哀れむよ、ということだった。)

 二つ目の型には誰かかの紹介。私がかつて30年間ほどかかりつけ医として頼った医師がいた。職場の上司から旧制高校の同級生だとして紹介された人だった。その医師は患者用の椅子と自分用の椅子とを同じ仕様にしていた。通常、椅子は医師のほうが非対称的に立派である(第3回参照)。(その人は還暦をすぎると廃業し、自分は国境なき医師団の一人として海外にでかけてしまった。)

 じつは三つ目もある。それはテレビなどで評判の名医を追いかけること。この追っかけが私のヨガ教室仲間にもいた。その仲間はこぼした。相手が偉くなるほど勤務先が変わったり、予約日にいっても多忙でお弟子さんが代診したり、というようになりがちだ、と。

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 私のかかりつけ医は、当方がクリティカルな状況になると、ただちに専門病院へ紹介状を書いてくれた。医師になった友人の話によると、医師は自分が全能でないことを自覚しているので、その相互補完のためにそれぞれがネットワークをもっているはず、だから疑心暗鬼になるな、という。つまり個々の医師の後ろには専門家集団が控えているから安心せよ、というのだ。

 その友人に質した。医師と患者とのあいだには相性というものもあるだろう、と。そうだな、相性以前の問題があるね、との答え。新しい患者は、顔を覚える前に来なくなる確率が多い。それが治癒したためか、信頼されなかったためか分からない、と。この話を聞いた後、私はお礼のフィードバック――年賀、暑中見舞いなどを含めて――をお世話になった先生に出すことにしている。フロー-ベールにもどれば、かれは「医師」を「つねに先生」とも定義している。

 くどいが、私は自分の病状について、自分の思いを「つねに先生」に十分に語れたという経験がない。それはつぎのような悩みである。

(1)私は、現在、n種の病気をもっている。(2)それぞれの病気は、診療科が違う。しかも、個々の診療科の医師から見ると、いずれもトリビアルな症状のようだ。(3)だが、患者の私にすれば、その苦痛は、個々の症状の線形結合(足し算)ではない、交絡する部分(掛け算)がある。

 このへんの患者の迷いを、ぜひ「つねに先生」には留意してほしい。

【参考資料】
ギュスターヴ・フローベール(山田爵訳)『紋切型辞典』、青銅社 (1978)
紋切型辞典 (1982年)
宮川公男『統計学でリスクと向き合う』、東洋経済新報社 (2007)
統計学でリスクと向き合う―あなたの数字の読み方は確かか
日本老年医学会編『高齢者の安全な薬物療法ガイドライン』、メジカルビュー社 (2015)
高齢者の安全な薬物療法ガイドライン2015