忘れる
物忘れがひどくなった。まず、今日は何日なのか、何曜日なのか、それを忘れる。毎日が日曜日だから、ということだけでは説明つかない。月ごとのカレンダーを吊るしてはいるが、そのどこが今日になるのかを同定できない。仕方がないので、日めくりの暦もぶらさげているが、今度は、毎日、その暦を破くことを忘れる。しからば、と手元の新聞をとると、それが昨日の新聞だったりして。そうか、今日の新聞はまだ郵便受けのなかか、とはじめて気づく。
この愚行を続けること数年、やっと気づいたのは、手元の携帯電話器を覗くこと。そこには、いま現在の月日と時刻が示されている。
最近、文明の利器が出現した。アマゾンエコーである。「アレックス、今日は何日ですか?」ここで正解を得ることができる。ただし、私の声がしゃがれているので、のど飴なめなめ質問を繰り返すことが多い。
時間についても同様。こちらは各室に時計を置いてある。問題はそれらの時計が、
「時計屋の時計春の夜どれがほんと」(万太郎)
といった有様にあいなること。
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いまは何というのか、パソコン画面。昔は「ルック・アンド・フィール」といった。これがよく変わる。モノという人工物であれば、最良のものが発売時点で示され、それがしだいに劣化するという経過をとるが、ソフトウェアという人工物では、最初にバグ入りのものが発売され(無料の場合もあるが)、それが次第に洗練?される。
だから、ユーザーはつねに、それに追いついていく努力を求められる。最近、フェイスブック関連のシステムで、これが目立つ。物忘れに悩む老人もこの難行に耐えなければならない。
もう一つ。私はウインドウズ仕立てのパソコンを2セットもっているが、同じバージョンであるはずなのに、まったく異なる初期画面がでる。
「句碑ばかりおろかに群るる寒さかな」(万太郎)
の心境。「句碑」を「アイコン」と読んでみてください。
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キーボード配列についても、私は不満をもっている。私は中年まではカナモジ論者であ-JISり、カナタイプを使っていた。当時、カナタイプのキーボード配列にはJISがあり、私はそれに慣れていた。(話がずれるが、フォントにも「カタセンガナ」という規格があった。)
だが、50代になったころからワープロなるものが出現した。当初、ワープロは高価であり、くわえて電源200ボルトを必要としたり、個人ユーザーには使いにくかった。だが、かな入力として親指シフト、オアシス・キーボードが出現するにおよんで、私はカナモジカイを退会し、ワープロ派に転向した。だが、私はローマ字入力かな漢字変換ができるようになるとは、予想もしなかった。
ということで、私の現在のキーボード操作法は、
「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」(万太郎)
といった有様である。「竹馬」を「キーボード」と置きかえてほしい。
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ローマ字入力かな漢字変換で困ることがある。それは読めない文字があること。歳時記に多い。班雪(はだれ)、仙人掌(さぼてん)、浮塵子(うんか)、白朮詣(おけらまいり)など。読めなければキーボードに入力できない。そんな文字に遭遇すると、
「読初や読まねばならぬものばかり」(万太郎)
といった気分になる。
余談になるが、『宇治拾遺物語』は「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」の読みを、「子子子子子子子子子子子子子子子子」と書かせている。現代でも井上ひさしは「ルビはそんかとくかをかんがえる」とルビを振り、「振仮名損得勘定」と書かせている。逆に、四字熟語には読めるが書けない文字が多い。
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もの忘れへの対応はメモを作成することにある。先日、文房具屋へいって、「京大式カード」といったが、言葉が通じなかった。「メモ用カード」といっても答えなし。幸いにも、アマゾンに「京大式カード」という商品があった。
規格についてはさておき、そのカードでメモを作りそれを書棚やテレビの枠、あるいは冷蔵庫に張り付けておくことにした。ところが、メモを書いたことを、メモを貼ったことを忘れてしまう。そのあげく、
「一句二句三句四句五句枯野かな」(万太郎)
となる。わが書斎が枯野に化けるということだ。
この方式、来客があるときには鬱陶しい。その前日に剥がし、その翌日に貼り直す。これが厄介。なんでこんなメモがあるのか忘れているから。かといって、棄てるリスクはとれない。
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カードがダメなので、こんどはノートを用意し、ここになんでも書き込むことにした。要は、日記になんでも書き込むということだ。結果として、その日記には、テレビ番組のCM、読書メモ、自分の健康情報、・・・、などなどが雑然と溜め込まれている。カードからノートへ。これって、ノートからカードへと進化する梅棹忠夫の『知的生産の技術』とは正反対。
ということで、あげくの果てが、
「なにがうそでなにがほんとの寒さかな」(万太郎)。
となってしまった。
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最後に一言。今回からスレッド名を「後期高齢者のつぶやき」とした。「拘忌高齢者」では奇をてらっているかな、と思いなおして。
【参考資料】
梅棹忠夫『知的生産の技術』岩波新書 (1969)
井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮社 (1981)
名和小太郎『オフィイス・オートメーション心得帖』潮出版社(1983)
久保田万太郎(成瀬桜桃子編)『こでまり抄』フランス堂 (1991)