フェイスブックすなわち回覧板
私の住む区では、いま、「プライバシー」を巡って微妙な論争がなされている。それは、後期高齢者のみが生活する家庭の名簿を区役所が事前に警察に開示することを可とするか非とするか、についてである。なぜか、と聞けば、後期高齢者は不正な詐欺の対象になりがちであり、そのような社会的弱者を警察が事前に保護するためには名簿が必要、という答え。
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このやり取りをみて私は「とんとんとからりと隣組」を思い起こした。それは戦時下に流行した国民歌謡(作詞、岡本一平)。その第1節は、
とんとん とんからりと 隣組/格子を開ければ 顔なじみ/回して頂戴 回覧板/知らせられたり 知らせたり。
となっている。2~4節のリフレインは「教えられたり 教えたり」「助けられたり 助けたり」「纏められたり 纏めたり」となる。
ついでにいうと、隣組は1940年に官主導で制定された大政翼賛会の末端組織であった。制度の名称は「部落会町内会等整備法」。その役割は上記リフレーンの「知らせられたり 知らせたり」などに示されている。いずれも相互監視の有力な手段であった。ついでにいえば、当時は転居は少なく、だれもが向こう三軒両隣の機微にわたる消息を知悉していた。
「知らせられたり知らせたり」などの機能を支えるものは町内会の名簿だろう。名簿のたぐいは、同窓会名簿、学会名簿、町内会名簿など、かつては社会に溢れていた。それがゼロ年代のなかばころから消え始め、いまでは、新規に発行されるものは(更新を含めて)ほとんどない、という有様になった。
ところが、である。近年、名簿を簡単に入手できる場所が急増している。たとえば、フェイスブック。ここでは当人の氏名と写真のみではなく、その友だちの氏名まで、しかも写真付きで見ることができる。効率はいま一つだが、スパイシーというアプリもある。また、たとえば病院や大学のサイト。ここでも職員名簿(医師名、教師名)をみることができる。こちらは野放図といってよい。いずれも雲(クラウド)というサイバー空間に入っている。
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話をもどせば、名簿の移転はプライバシーにかかわる。『オックスフォード英語辞典』によれば、初出は14世紀、その意味は「他者から、あるいは公共的な関心から抜け出す状態」(要旨)とある。
19世紀末になり、この言葉は法律家によって法的領域にもちこまれ、その後、漠然かつ精緻な議論が展開されることになる。たとえば、電話の盗聴はプライバシー侵害か、住宅外壁の温度測定はどうか、乗用車に付けられたGPSデータはどうか、など。最近は、路上に棄てられたゴミはどうか、そこにはだれかの皮膚や髪――DNAデータを採取できる――がまざっているかも、といった議論も現れている。いずれもセンサーは公共的な場所に置かれている。家庭内ではない(だから家庭内の「粗大ゴミ」、つまり亭主は別扱い)。
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日本の個人情報保護法はどうなっているのか、とみると、「個人情報」を「個人識別符号」を含む情報と定義し、「個人識別符号」には氏名を含むと示している。たさらに「匿名加工情報」という怪しげな概念の定義も示されている。肝心の「プライバシー」という言葉であるが、法律の本文にはない。ただし、JIS(日本工業標準)には「プライバシーマーク」として現れる。
いずれにせよ、フェイスブックなどにくっついている「雲のなかのプライバシー」も「ゴミのなかのプライバシー」と同等に扱われるようになった。
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文脈はやや外れるが、欧州では「忘れられる権利」などという定義が通説となりかけている。だが、どうだろう。忘れられるということは、その人の存在が抹消されることにもなりかねない。というのはサイバー空間で検索できない人は、いまや実空間においても存在しない、というように私たちの社会は再構成されつつあるので。とすれば、あるいは「忘れられない権利」も必要な時代になったのかもしれない。
冒頭の課題にもどれば、社会的な弱者である後期高齢者たる私は、区にも警察にも、忘れてほしいと頼むか、忘れられないでほしい、とすがるか、その選択に迷っている。
高崎晴夫さんの近著によれば、サイバー空間に住むユーザーには、プライバシー原理主義者、プライバシー無頓着派、プライバシー現実主義者がいるという説ありとのよし。私はといえば、主観的には現実主義者、客観的には無頓着派ということになるかな。
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「隣組の歌」はなぜか戦後になっても人気がある。それは「お笑三人組」(NHK)、「ドリフ大作戦」(フジ)の番組の元歌となり、さらに武田薬品、メガネドラッグ、サントリーのCMでも引用されたという。
【参考文献】
名和小太郎『個人データ保護』、みすず書房 (2008)
名和小太郎「ゴミのなかのプライバシー、雲のなかのプライバシー」『情報管理』、v.60, p.280-283 (2017)
高崎晴夫『プライバシーの経済学』,勁草書房 (2018)