小林「情報産業論」(8) 

なぜ「情報産業の時代」と言わなかったのか

夏の間、他の雑文書きにかまけて、しばらく間が空いてしまったが。

虚業を虚数のアナロジーで論ずることに対する批判の、続きから。

こういうふうに整理してみると、人類の産業の発展史は、農業の時代、工業の時代、精神産業の時代という三段階をへてすすんだものとみることができる。(p52)

この先の、内胚葉の時代、中胚葉の時代、外胚葉の時代というアナロジーも含め、梅棹の産業発展の三段階区分が世界的に見ても、時代を魁(さきがけ)ていたことは、言を俟たない。

先にも触れたが、アルビン・トフラーの『第三の波』の出版が1980年だったということだけで、梅棹の先進性を語るに十分であろう。

しかし、例によって、ぼくには、「精神産業」という言葉に対する違和感が拭いきれない。なぜ、「情報産業の時代」ではいけなかったのだろう。後に、トフラーは高らかに「情報革命」と言い放ったではないか。

梅棹はなぜ、一方で、情報産業のことを「虚業」と卑下し、その一方で「精神産業」という21世紀に生きるぼくからすると、いかにも座りの悪い言葉を使ったか。

これも、以前言及したことだが、梅棹の生きた時代、「情報」という言葉の主たる意味は、まだ、「①事柄の内容、様子。また、その知らせ。」(日本国語大辞典縮選版)という意味が主流だったと考えられる。
「②状況に関する知識に変化をもたらすもの。文字、数字などの記号、音声など、いろいろの媒体によって伝えられる。インフォメーション。」(同上)
⑵現在のように information と緊密に結びつくようになったのは、一九五〇年代半ばに確立した information theory が「情報理論」と訳され、普及したことによる。」(同上)

逆に、このような時代背景を鑑みると、梅棹が作った「情報産業」という言葉は、その時代、いかにも斬新で、ある意味ではゴリっとした違和感をもって迎えられたのではなかったか。

その違和感を埋めるために、梅棹は意図してか意図せずにかは措くとしても、「虚業」「精神産業」という両極端の印象を持つ言葉を使ったのではなかったか。

言葉は、時代精神とともに変化する。

ぼくたちは、その後、精神産業としての宗教産業の鬼っ子とも言うべきオウム真理教によるサリン事件を体験する。

だからと言って、ぼくたちは、梅棹の「精神産業」という言葉に対する違和感を以ってして、梅棹の先進性を貶めてはならない。梅棹が工業の時代のその先に見据えた「情報産業」の時代は、世紀を超えて今も時代の先端を切り拓き続けている。

・発生学のアナロジーと梅棹の悪戦苦闘

もう少し先まで読み進めておこう。

わたしたちは、現代の情報産業の展開を、きたるべき外胚葉産業時代の夜明け現象として評価することができるのである。(p54)

じつは、ぼくは最近まで、梅棹の農業時代=内胚葉時代、工業時代=中胚葉時代、精神産業時代=外胚葉時代という、彼が学生時代に学んだ発生学へのアナロジーについては、どこか為にするアナロジーだといった印象を抱いていた。大学での授業の際も、あえてこの部分を飛ばして読んでいた時期もある。梅棹自身、「情報産業論」が単行本としてまとめられた際、20年の時を経て執筆した「情報産業論への補論」の劈頭で、「外胚葉産業」という言葉についての、説明を試みている。その文章の端々からは、どこかしら、弁明めいたニュアンスを感じ取ることができて、平素は舌鋒鋭い梅棹とは異なる面を見るようで、すこし微笑ましい気分になる。

それはそれとして、「精神産業」という言葉について考えているうちに、ぼくは、梅棹が「外胚葉産業」というこれまたちょっと違和感のある言葉を用いた理由も、少し分かったような気がしてきた。

そう。繰り返しになるが、「情報産業」という言葉は、梅棹が用い始めた時代には、新しすぎたのだ。「情報産業」という言葉が持つ時代精神との乖離を梅棹自身が一番感じていたのではないか。その乖離を埋めるために、「虚業」という言葉を用い「精神産業」という言葉を用い「外胚葉産業」という言葉を用いたに違いない。

もとより中胚葉産業の時代にあっても、後に展開するはずの外胚葉産業の芽はいくらも存在する。さらに、もう一つ前段階の内胚葉産業の時代にあっても、中胚葉産業および外胚葉産業の先駆形態がたくさん存在した」(p54)

トフラーの「第三の波」に係わって、恩師伊東俊太郎から

「情報革命が起こったからといって、農業がなくなるわけではありませんよ」

という言葉を聞いた記憶がある。ぼくが2年の留年を経て大学を離れたのが1976年だから、直接師事していたころのことではなく、後に、テレビで見たか何かの文章で目にしたかなのだと思うが、伊東俊太郎の言葉として鮮明に覚えている。

さらに時代が降り、脳科学が時代の寵児となり始めたころ、そして、それは、あのサリン事件に至るオウム真理教の時代とも重なるのだが、脳のある部分に刺激を与えると、空腹感を抑えることが可能になった、という話を耳にした。おそらく、脳科学を援用したダイエット法といった下世話な話ではなかったかと思う。

その時、ぼくは、ある思いに至って慄然とした。

「人類は、空腹感を覚えることなく餓死する可能性を獲得した」

梅棹の謂を藉りると、外胚葉産業が内胚葉産業に突き刺さる時代、とでも言えようか。

梅棹は、情報産業を虚数のアナロジーとして論じた。それは、実業=中胚葉産業 vs 虚業=外胚葉産業といった2次元空間へのアナロジーだった。

ある時、学生たちとの議論の中で、内胚葉産業、中胚葉産業、外胚葉産業を、単に時代区分として捉えることについての議論が沸騰したことがある。その議論の延長で、いっそのことこれらの言葉を、内胚葉軸(農業=食物摂取)、中胚葉軸(工業=筋肉的労働)、外胚葉軸(情報産業=精神労働)という3次元の軸で捉えてはどうか、という話に落ち着いた。

この考え方の変化は、劇的だった。

例えば、今をときめく農業情報処理一つを取っても、みごとに梅棹の視野の中で論じることができる。農業に不可欠な天候の予測にしても、観天望気の時代から、気象衛星とスーパーコンピューターを用いた最先端の気象予測まで。

梅棹は、「情報産業論」を含む一本をまとめるに際して、『情報の文明学』という書名を与えた。情報産業を地球規模の文明論的な視座で捉える雄渾な構えを得るためには、情報産業という時代を魁た言葉で時代精神に切り込むための、悪戦苦闘があった。その痕跡を読み解くことができることを、ぼくは今、とても幸せなことだと思っている。